「おい、久子――上山が金が入つたから正衞に奢るつて、富士見町にさそつたんだつてさ。あの上山が――さんざ正衞を先生先生と云つておきながら。奢る? だとさ」伯父はいつになく揶揄[#「揶揄」は底本では「揶喩」]するやうな調子で言つた。
 坂を登りつめると少しばかり平地がつづいて、ひらけた眼界には靜かな相模灘の紺青がほのかな伊豆の嶋を浮かべて、初夏の空と圓く連なつてゐた。老人も若い人々もしばらく一樣に立ち止つてはればれとその風景に見とれてゐた。
「お祖母さんのおかげで小田原の海も久しぶりに見ましたよ――」と東京の伯母が眞底からうれしさうに言つて腰をのばした。
「いい景色だよ――」一ばん小さい高村の從兄が大人のやうな口をきいたので、一同は他愛もなく笑ひこけた。
「さあもう一息だ――」高村の伯父が肥つた體を動かしだしたのをきつかけに、一行は又ガヤガヤとさわぎながら平地の麥畑を通りぬけて坂にかかつた。
 急な勾配を登り終へたところに細い青竹を組んだ木戸があつた。それを入ると大きな椎の木のかげに粗末なあづま屋がたつてゐた。一行はそこに入つて汗を落ちつけながら一休みした。
「お煙草召しあがる方はようござんすね、こんなときは――すぐに一服」と母が靜岡の伯父に話しかけてゐた。靜岡の伯父は何とも答へずに腰から拔いた煙草を口にもつていつて火をつけた。小説家の從兄は用意してゐた小刀で傍の藪から小さなしの竹を切つて手頃な杖をこしらへてゐた。それを孤兒になつた從兄がもうはうとして待ちかまへてゐるのが何となくいぢらしかつた。
「よく燒けてゐるよ――」弟や從兄がいつの間に行つたのか眞面目な顏をして歸つて來てみんなに報告した。青葉のかげに黒い大きな煙突の見えるのがそれらしかつた。私はそれを聞くとぎくり[#「ぎくり」に傍点]とした。そして今更の樣に何をしに來たのだつたかを考へた。
「きれいなものだよ――」と從兄が言つた、
「見て來たの、ほんとに?」と高村の伯母、
「ああ、よく燒けてゐるつて留さんが言つてた」と弟。
 私はきくともなしにその會話をきいてゐた。そして不思議に安堵に似た靜かなこころに歸つて行つた。
「ではどうぞ――、御仕度が出來ました」留さんが繁みの中から出て來て告げた。
 青い空を背景に石でたたんだ三つの竈があつた。一つ一つに丈夫な錠がかけられてゐて、鐵の扉のまはりの白煉瓦は煙で黒くすすけてゐ
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