な立場を子ども管理の具体的な仕事として推し進めようと語りあったのだった。この語りあいのなかで、あるわかい女教師はしみじみといった。
――K子さんが、わたしたちの学校にいたら、石をしょわずにすんだと思うの。
この教師のいる学校には、すでに民主の風が職員室のすみまで流れていた。わかい教師たちの発言が自由に、しかも強い位置をしめ、子どもの問題も、教育の問題も、教養の問題も、ともに語りともに苦しみ、ともに解決するための組織ができていた。教師たちの生活を守り、民主教育を推し進めるための組合運動についても正しい理解をもち、組合は、教師たちの新しい教養、読書会、研究会をわかい人々の推進によって活発に行っている。このわかい教師たちは、自分たちの不幸や、苦しみをうちやぶるものは、自分たちの頭脳や倫理や生活を自らの力によって民主的にきずきあげること以外に方法はないことをはっきり自覚している。石をしょわずにすむということの方法は、このような積極的な建設への途をすすむか、あるいは一切の良心をくらやみに押し流して逃避と日和見の生活態度を生きるかの二つにつきる。
わかい世代をつくりあげるわかい教師の生きる道は、単なる古い型における教育への愛情、子どもらへの愛情だけではどうともならない。村の封建性や、学校のそれに対して、はっきりしたたたかいの心構えを実践するところに、わかさの本領がある。
K子が、わたくしと青年との間の農業革命の進みかたに関する、ごくわかりやすい話に耳をかたむけていながら、ほとんどわからないとなげかねばならぬ教養の貧困と非科学性も現在のわかい教師たちの共通の問題であろう。あらゆる父兄が、その子弟の教育をなす権利のためにいかにたたかうかを、教師は父兄とともに探究していくところにPTAなどのいきかたがある。教師と父兄、村と学校が封建的ないがみあいの殻からぬけきれないのでは、日本の民主革命も心細い。
村や学校や、自分の頭脳のなかに残存している封建的なものから脱却し、封建的官僚の権力支配から教育を解放して、働く人民のための教育を建設するために、わかい教師たちはひたむきな明るい道を進んでほしい。わかい女教師の死をめぐる問題のもつ教育的意義は、このようなギセイを日本の教師たちのなかから出したくないことにつきる。そのためにこそわかい教師たちの正しいふるいたちをねがうのである。この地方
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