国分一太郎君の仕事
村山俊太郎

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 国分一太郎君が、私と親しくなったのは、昭和二年、同君が師範の三年で、私が師範の専攻科時代に始まる。その頃二人は、同じ汽車のなかで短歌を語ったり、万葉を語ったりしていた。それから十年あまり、私と国分君とは兄弟以上の親しさになり、よろこびもかなしみも、ほろにがい生活の味もともにかみしめてきた。
 佐々木昂さんは、国分のことについて語るならば私が一番よいといっていられるが(教育週報)実は知りすぎていて語れないもののひとりが私だろうと思っている。
 今、国分の仕事を客観的に語っていただく最適任者のひとりである昂さんは、二度目の愛弟の遺骨を大阪で迎えて町葬をすまさねばならない。このかなしみは慰める言葉もない。このゆえに私は代わって国分のことについて語らなければならぬ。
 二十七の若さで倒れた国分が、これまでなした仕事については、今更私がここにおしゃべりする必要もなかろう。まず昭和五年長瀞に赴任し、文集“がっこ”をつくり、翌年は短期現役を終えてから文集一冊と詩集一冊をつくり、それ以来精力的にコツコツと原紙を切り、ルーラーを回転し、文集“もんぺ”“もんぺの弟”を出した。積み重ねると机の高さにもおよぶであろうこの文詩集をみるたび、私はいったい何をしていたろうかとムチ打たれながら驚いていたのだ。
 国分はその後さまざまな教育ジャーナリズムのうえに良心的な論文を発表しているが、この仕事は、すべて子どもに打ちこんだ実践を土台とするものであり、そこに国分一太郎の本質的な仕事の光がある。単行本に収められている綴方、読み方の論述だけでも優に部厚い本に纒まるほどだが、教国、実国、綴方生活、工程、国研をはじめ、全国の地方誌に掲載した綴方教育の論説だけでも三十篇をこえている。ことに最近ものし始めた彼の随筆、童話、創作、童詩などには、彼独特の子ども観察を描き得て私のもっとも愛する彼の仕事だと思っている。私は今これらの仕事について語るだけの紙面は持っていない。
 今回、扶桑閣から出版した“教室ノート”は彼の教室記録である。あんな大部な文詩集をつくりながら、よくもこんなに丹念に毎日の記録をとったものだと思わせるほど、国分君はすばら
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