『教室の記録』の編集を終えて
村山俊太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ごまかし[#「ごまかし」に傍点]
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 この本は、国分君と、同君の片腕となり励まし合い批判し合って来た協同者である相沢さんが、ともに子どもを観察し、子どもとともに生きようとした教壇生活の記録である。
 両君は、理解ふかい校長先生の部下として、また「生活学校」の読者として、農村教師としての良心を持ちつづけながら、一つ目的にひたむきな精進をつづけ、「もんぺの弟」、「長瀞子ども」をまもりつづけてきた。そして良心のゆえに、つねに子どもや村について悩んできた。いわば、この本は、その悩みの過程における両君の血と涙の報告記である。そのゆえに国分君のもっとも本質的な姿を反映しているものであることを信じている。

 国分君が二十七の若さで、これまでなした業績については、ここにおしゃべりする必要はなかろう。それは、積み重ねたら机の高さにおよぶであろう児童文集「もんぺ」「もんぺの弟」に凝結している。これまでに公にされた綴方教育に関する諸労作などは、その文集の一つ一つの反省語にすぎない。
 また、愛すべき創作、随筆、童話、詩なども文集や教室ノートなどの本質的な発掘である「子どもの観察」から生まれている。私たちは国分君のこれらの数多い労作をとおして、同君がいつも子どもと良心的に裸になって、生活の場においてとっ組み合いながら鋭い観察の眼をもって子どもを組織しようとしている、情熱的な態度を学ぶだけでたくさんだ。そこにはいささかのごまかし[#「ごまかし」に傍点]や安易な妥協もない。
 本書に採録した教室記録もまた、まったく驚くべき努力で書きつづけられている。ここに採録したのはほんのわずか一部分にすぎないが、いつかは国分君の手によって整理され、系統づけられることを待望する。採録した創作、童話、随筆なども、つまりは同君の子ども観察の記録として興味がふかい。

 さて、国分君は、こうした良心的な自責に追い立てられながら、幾多の生活的な困苦とたたかい、とうとうオーバーワークに倒れなければならなくなった。私たちはこの事情や、同君の肉体についてよく理解できる。これはいうまでもなく国分君個人の問題というよりは、むしろぼくたち教師自身の問題であり、教育実践上の重大
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