人の連なる縁で、こっちもすっかり赤面し、咄嗟《とっさ》に何と答えていいか、ただ眼玉をウロウロさせるばかり。とんと挨拶の言葉もないありさまだった。
石亭先生のお陰で、これまでにもたびたびひどい恥を掻いたことがあるが、こういう非凡なのはこれが初めてだった。馬鹿馬鹿しくて話にならない。いかにも先生が憎らしくなって、何もかも一切カラスキーにぶちまけてしまった。
カラスキーは、ふふ、と小刻みに笑ってから、まるで自分のことのような親切な口調で、
「先生としては、ここの空気に同化しようとして、一所懸命なすったのでしょうが、こんな場所で、あんな出鱈目をいうのは、すこし無考えすぎるようです。うまく利用されて、どんなひどい破目に陥し込まれないものでもないから」
「いちいち、ごもっともです、毎度のことながら、先生には弱らされます」
カラスキーは、陰鬱とも言えるような物静かな口調で、
「ともかく、先生は、ここで、毎日、むやみな金づかいをしていらっしゃるんですよ。……こんなこともご存知なかったでしょうね」
「えッ、金を、どう使うんです?」
「毎日、大餐宴《バンケ》をやったり、ここへやってくる人間に一人残らず酒振舞をしたり。……それだけなら、まだいいのですが、ねだられるとだれにでも金を呉れてやる。それも、生優しい金でないのです。……この辺では、先生のことを『中央銀行《バンク・サントラール》』といっています」
「これは、驚きました。馬鹿もいい加減にしておいてもらいたいもんだ」
「そうですよ。……この辺の住人ときたら、まるで鬣狗《ハイエナ》のような貪婪《どんらん》なやつばかりですから、そんなことをしていたら、それこそ骨までしゃぶられてしまいます。一旦喰い下ったとなったら最後まで離しはしませんから……。先生の世間見ずをいいことにして、その一例として、ある二、三人のやつらが、『藁麺麭《パン・ド・パイユ》』という出鱈目なものを捏ね上げて、先生に発明権を買わせようとしているんです。……藁《わら》を摺り潰してパルプをつくり、それをフェナルチン・アドという薬品で処理すると小麦粉と同様のものができるというのですが、フェナルチン・アドなんてのがそもそも出鱈目なんで、そんな薬品はどこにもありゃしない。実際のところ、それは薬でも何でもなくて、ごく上等の小麦粉それ自身なんです。初めっから藁に小麦粉を混ぜるんですから、藁だけ除けると後に小麦粉が残るのは当り前。小麦粉が出て来なかったら、それこそ不思議なくらいです。……ところが、先生は、そんなことはごぞんじない。これは世界的な大発明だというので大乗気になっているんです」
先生は、そんなことは指の先ほども漏らさなかった。気がよくて、お喋舌《しゃべ》りで、ちょっと法螺も吹く石亭先生が、ピリッともそれに触れなかったというのは、それだけでも、先生が「藁麺麭《パン・ド・パイユ》」にどれほどの熱情を持っているか充分に察しられる。先生は発明が他に漏れるのを惧《おそ》れ、ムズムズする口の蓋をガッチリ閉めて、牡蠣《かき》のように頑固に押し黙っていられたのである。
カラスキーは、依然たる沈鬱な口調で、
「この『洪牙利亜兵《ロングロア・ヴェール》』で、先生が、どんなことになりかかっているか、これでだいたいおわかりになったことでしょうが、その他に、まだいけないことがあるんです」
さすがに、少々空恐ろしくなってきて、うろたえた声でたずねた。
「お次は、いったい、何です」
カラスキーは顔を深くうつむけて、囁くような声でいった。
「ポリーチカ!」
「ポリーチカって、何のことですか」
カラスキーの小さな烏眼《くろめ》の中で、瞬間、チラと焔のようなものが燃えた。
「あまり大きな声をしないでください。……政変《ポリーチカ》……この巴里に、まもなく、たいへんな政治的擾乱《ブールヴェルスマン・ポリチック》が起きるのです。……その結果、この地区《カルチェ》などは相当辛辣に検索されるにきまっていますから、先生のような方がこんなところでマゴマゴしていてはいけないのです。外国人《エトランジェ》が好んでこんなところに住んでいるなどというのは、その目的は何であれ、充分、疑惑の眼で眺められる余地があるのだから、先生の出ようによっては、ひどく困ったことにならないものでもありません。……ところで、先生の出ようってのは、それこそ、今ここで、充分察しられるのですからねえ。れいの鼻っ張りの強さで、だれかれかまわず喰ってかかられるにちがいないのです。刑事であろうと、巡査であろうと、まるっきり見境いがないんだから。……腹を立てれば、どんな出鱈目でも言うでしょうし……」
冗談どころではなかった。
この瘠せこけた、沈んだ顔色をした青年は、どういうゆえんによってか、石亭先生の馬鹿げた自尊心を害《そこな》うことのない、もっとも聡明な方法で、当然、先生にひどい厄災《やくさい》を齎《もたら》すであろう危険な地区《カルチェ》から、それとなく追い立ててくれたのだった。
とても恍《とぼ》けているわけにゆかなくなり、われながら、少しばかりムキになって、
「すると、あなたは、つまり、石亭先生を……」
と、心からなる感謝の意を述べようとすると、カラスキーは手を挙げて、
「その後はおっしゃってくださらなくてもけっこうです。格別、何をしたというわけでもないんだから。……先生に対するわたしのひそかな尊敬と友情が、陰ながら、いくぶんでも、先生のお役に立ったとしたら、それに越した喜びはありません」
そう言って、ゆっくりと両足を踏み伸して、背凭のとれかかった古い籐椅子の中に沈み込むようにしながら、
「……わたくしもね……私もむかし、モスクヴァで、ベイエの道徳社会学を勉強していたことがあります。結局、ものにならなかったことは、この風体をごらんになればおわかりになるでしょうが。……ああ、しかし、あの頃の生活は私の生涯にとって、いちばん楽しい時代でした。……辛い勉強の間にも、私はいつも希望と理想に守護されておりましたし、また田舎には、年とった母がまだ生きていた。大試験《テルム》が済んで田舎へ休暇に帰って行く、その楽しさといったらありませんでした。長い野道の向うに、私の家が見えかかってくると、私は、嗚咽《おえつ》を止める力さえなかったほどでした」
カラスキーの頬に、ほのかな血の色がさし、その眼は、じかに何か好もしい風景にでも触れているような、一種恍惚とした翳《かげ》の中に沈み込んだ。
「……わたしの田舎は、ドニエープル河のそばのザパロージェというところにあるのです。河の名前ぐらいはお聞きになったことがあるかもしれない。ウクライナの南のほうです。……夏が近くなると、野生の雑草が繁った茫漠《ぼうばく》とした草原の中に、数限りない花が咲乱れています。高い草を押し分けるようにして、連翹《れんぎょう》色のオローシカが咲いている。黄金色のえにしだ[#「えにしだ」に傍点]が三角形の頭を突き出し、白い苜蓿《うまごやし》が点々と野面《のづら》を彩っています。……鷓鴣《しゃこ》が飛び出す、鷹がゆるゆると輪を描く。……夕方になると、湖から飛び上った白鳥の列が、銀の鈴を振るような声で鳴きながら北のほうへ渡って行く、その羽根に薔薇色の夕陽が当って、薄暗くなった空の中を、赤いハンカチでも飛んでるように見えるのです。……アンドリュウのお祭になると、村々が湧き立つような騒ぎになる。蜜餠《メウドウイチ》だの、罌粟餠《マアコニック》だの、油揚餠《パンプウシキ》だの、肥《ふと》った牝山羊の肉や、古い蜂蜜。……大きな樺の樹の下で、古いザパロージェ人の老人《としより》たちがパンドーラを弾きながら火酒《ウオトカ》を飲んでいる。その楽しそうなようすといったら!……たしかにそんな時代もあった。……夢ではない。たしかに、むかしあったことだ。……しかし……」
と、いいかけて、急に夢から醒めたような顔つきになって、チラとこちらへ振返ると、軽い恥の色で、高い頬骨のうえをほんのり染めながら、
「……つまらないことを。……なんのつもりで、こんなことを喋舌《しゃべ》り出したのか。……今日は、すこし、どうかしている。私が、こんなふうに情緒的になると、その後、きまって熱を出すのです。さァ、ずいぶん喋舌くった。もう、このくらいにしておきましょう」
と、いって、椅子の中に身体を起すと、上衣の衣嚢《ポーシュ》から古風な時計をひき出して眺め、
「おお、もう九時だ。……実はね、今日、九時半になると、非常臨検《ラッフル》があるはずなんです。そろそろお帰りにならないと、うるさいことになる」
食堂の方を振返って見ると、なるほど、海象《モールス》のような顔をした主人のほか、ひとりの人影もなかった。
「ご心配には及びません。ヴィエットの市門《ポルト》のところまで私が送ってって差上げます」
市門《ポルト》を出ると、カラスキーは、骨ばった手でこちらの手を握って、
「では、ご機嫌よう。どうぞ、ムッシュウ・ヤマカワによろしく」
呟くような声でそう言って、軽い咳をしながら舗道の闇の中へ紛れ込んでしまった。
三
山川石亭先生が、けたたましく扉《ドア》を叩く。どうもうるさい先生だ。ブツブツ言いながら扉を開けると、石亭先生が右手に号外を鷲掴みにして、顔じゅう眼ばかりのようにして飛び込んで来た。
「どうも、えらいことが始まりました」
「あなたのえらいことには聞き飽きましたよ」
「冗談じゃない、大事件だ。大事件だ。……ゴイゴロフがズーメ大統領を暗殺したんです。……ああ、こんな事ってあるもんだろうか。わたしは、たいへんな衝撃《ショック》を受けて、一時は茫然としてしまったんです」
号外をひったくって、斜に飛び読みしてみると、だいたい、こんなことが書いてあった。
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(六日午後三時大統領ポール・ズーメ氏は、ロスチャイルド会館で開催中の大戦出征作家絵画文芸展覧会を訪問中、一露西亜人の暗殺兇行の犠牲になった。兇漢はピストル三発を直射。大統領は一弾を頭部に、二弾を肩部に受け、ただちにポオジョン病院に収容されたが、なにぶんにも七十四歳の高齢なので、生死を危まれている。犯人は、カラスキー・ゴイゴロフと称する白系露人で、仏国政府に労農政府が干渉せず、ボルシェビキ排撃を決行しないことに深い不満を抱き、仏蘭西首脳者に危害を加えたものと解せられる)
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石亭先生は、頸まで真っ赤にしていきり立ちながら、
「いったい、なんの必要があって大統領なんかを殺すんです。仏蘭西の大統領なんぞは、外国のほうを向いて立っている、一種の社交の人物にすぎないんだから、そんなものを殺してみたってなんの役にも立ちゃァしない。実際あの気狂い野郎のやりそうなこってすよ。馬鹿々々しいにも程がある。……あの面相にしてからが、典型的な|悖徳狂の型《モーラル・インサニティ・タイプ》[#「悖徳狂の型」は底本では「悸徳狂の型」]で、ああいう乖離《かいり》性素質のものこそ、こういう傾向的犯罪を犯しやすいんです。ああいう種類のやつの非人情、残忍性ときたら、とても常識で律するわけにはゆかんのですからねえ」
なるほど、先生のような見方もあるだろう。カラスキーが先生に贈ったひそかな友情については、それを先生に告げる意志は毛頭なかったが、それはそれとして、少しばかり先生を困らしてでもやらなければ、虫がおさまらぬような気持になってきた。
「ねえ、先生、カラスキーがあなたをどこへ誘ったって言いましたっけね」
「サン・トノーレ街です」
「あなたは、サン・トノーレ街に大統領官邸《パレエ・ド・レリゼ》があることをご承知でしょうね」
「えッ」
「つまり、カラスキーは、あなたを大統領暗殺のお先棒に使うつもりだったのですね、こいつァどうも際どかったですナ。ノソノソ後を喰っついてでも行ったら、否応なしに断頭台《ギヨチーヌ》の上から巴里にさよならを言わなければならないところでした」
石亭先生は、咽喉の奥で、うるる、と妙な
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