ずに、このままどこかへ蒙塵《もうじん》してしまうつもりだが、なんとしても心がかりなのは、あちらへ残してきた調査資料で、長年の努力の結晶をあのままあそこへ放っておくわけにはゆかないから、田舎にいた甥がとつぜん叔父を訪ねてきたていにでもして、しばらく、わたしの部屋で寝泊りし、ゴイゴロフに覚《さと》られぬように、折を見て少しずつ持ち出してきてもらえまいか、というのだった。
 先生は、丸まっちい肩を昂然《こうぜん》と聳《そび》やかすようにしながら、
「ねえ、そうでしょう。退歩説の実例を挙げるために、わたし自身が殺されるのでは、これぁイミないですからねえ!」
 といった。

      二

 巴里の北の町はずれ、ラ・ヴィエットの市門《ポルト》からプウル・ヌーヴのほうへ行く町角に、※[#「木+眉」、第3水準1−85−86]《なげし》にニスで「洪牙利亜兵《ロングロア・ヴェール》」と書きつけた、安手な一品料理店《プラ・ド・ジュール》がある。
 これが、石亭先生いうところの「本郷バー」である。少々、舌ッ足らずの石亭先生が、「ロングロア・ヴェール」と発音すると、これが、どうしても「本郷バー」としか聞えない。先生は世事に疎《うと》いほうだから、いっこう気づかれぬ模様だったが、ある時、その多少の諧謔《かいぎゃく》味のあるゆえんを説明すると、石亭先生は、やにわに膝をうって、
「それァ、いいですな。今度から、本郷バーと呼ぶことにしましょう」
 と、ひどく勇み立った。
 ちょうど夕食|刻《どき》で、悪しつッこい玉菜《キャベツ》の羹汁《スープ》の臭いがムウッと流れ出してくる。
 もっさりした棉紗のカーテン越しにおずおずと内部《なか》を覗《のぞ》き込んで見ると、ジメジメした土間にじかに食卓《テーブル》を置いた横長の部屋で、「望郷《ペペ・ル・モコ》」に出てくる悪党《フィルウ》そのままの、ゾッとするようなじだらくな恰好をしたのが二十人ばかり、何か大きな声で叫び交しながら、乱雑極まる食事をしている。
 いずれも鳥打帽の横ッかぶり。血腸詰《プウダン》やら、河沙魚《グウジョン》の空揚げやら、胎貝《ムウル》と大蒜《にんにく》の塩汁、豚の軟骨のゼラチン、犢《こうし》の脳味噌を茹《ゆ》でたやつ、……市中の料理店の献立表《ムニュウ》ではあまりお眼にかかれぬような怪奇なものを恐れ気もなく食っている。なんでもない、ちょっとしたことだが、いかにも別世界へ飛び込んで来たような、なんとも言いようのない頼りない気持を感じさせる。
 いつまでも尻込みをしていてもしようがない。ありとあらゆる勇気を非常召集して、グイと硝子扉を開けて内部《なか》へ入った。
 ひどい臭気と温気が微妙に混り合って、もうもうと立ち罩《こ》めている。赭土の土間の上には、青痰やら、煙草の吸殻やら、魚の頭、豚の軟骨、その他雑多なものが参差《しんし》落雑していて、ほとんど足の踏み場もない。
 いかに石亭先生の依頼とはいいながら、こういう上品優雅な環境のなかでこれから四、五日暮さなければならぬかと思うと、いささか分に過ぎるようで、なんとなく心のほてりを感じる。
 海象《モールス》の牙のような太いダラリ髭を生やした主人《パトロン》らしいのが、水浅黄の|油屋さん《タピリエ》を掛けてひとを馬鹿にしたような顔で酒呑台《コントアール》のそばに突っ立っているから、そのそばへ行って、ゴイゴロフというのはどいつだ、と訊《き》くと、ゴオルキイのような顔をした青前掛は、ニュッと大きな眼玉をむいて、
「てめえは、なんだ」
 と、叱咤した。
 オドオドしていたんじゃなめられてばかりいてしょうがないと思ったので声に力みをつけて、
「おれは、山川石亭の甥だが、ゴイゴロフといううんてれがん[#「うんてれがん」に傍点]にちょっと言伝《ことづけ》を頼まれてやって来たんだ。ついでだから言っておくが、叔父の身代りに四、五日ここへ泊るつもりだから、そのつもりでいるがいい」
 と、威勢よくまくしたてた。少なくとも表面はそう見えたのである。
 青前掛のゴオルキイは、鼻翼《こばな》をふくらませて、ふうん、と嘶《いなな》いてから、
「おめえは、あの禿頭の甥ッ子か。なるほど変った面をしていやがる。まるっきり、河沙魚《グウジョン》だぜ」
 と、失礼なことを言った。
 しかし、こういうのがこの辺の気質なのだと思えば、腹も立たない。もっとも、腹を立ててみても、迂闊にそういう表現はできないのだから、煎じつめたところ、同じことのようである。
「よく皆がそう言うね。頭でっかちで骨ばっているところなんざ、セーヌ河の河沙魚《グウジョン》のようだってね。たいして面白くもねえ。何かもっと変ったことを言ってみたらどうだ。……そういえば、おじさん、おまえは海象《モールス》に似てるねえ、やっぱり、あッちのほうから流れ寄って来たのかい」
 ゴオルキイは、とつぜん、咽喉仏が見えるほど大口を開いて、ふわァと笑い出し、
「畜生め、海象《モールス》とは、うめえことを言うじゃねえか。ふん、こいつァいいや」
 そう言って、みなが食事をしているほうへ向って、
「おい、ピポ! この|悪たれ野郎《コキャン》がおまえに喋言《ジャボテ》してえそうだ。|掻喰い《ブウロタアジュ》がすんだら、こっちへやってきねえ」
 と、怒鳴った。
「おい、兄《あん》ちゃん、何かひと口しめしなよ。鸚鵡《ペロケ》でもやろうか」
 鸚鵡《ペロケ》、……どうせ、何か飲物の隠語だろうが、学校の悪たれどももさすがにこうは言わない。向うみずに引受けると、どんなものが飛び出してくるかわからない。やんわりと辞退した。
「まあ止めておこう」
「じゃア、石油《ペトロール》はどうだ」
「ガソリンや石油はなるたけ飲まないようにしているんだ」
「何を言ってやがる、このボケ茄子《なす》め、おいらのところの火酒《ペトロール》にガソリンなんざ入ってやしねえやい。ふざけたことを言いやがるとぶッ叩くぞ」
 これはどうも、そろそろいけなくなってきた、と、薄ら寒くなっているところへ、犂《からすき》の柄のようにヒョロリと瘠せた、影のような男が、ぼんやりとそばへ寄って来た。
 頬がすッこけて、色の褪めた壁紙のような沈んだ顔色をした、二七、八の青年である。ひどい顔面神経痛で、時々、ギクシャクと頬を痙攣《ひきつ》らせる。狂信者によく見る、おれだけが世界の真理を把んでいると確信しているような、ひどく落着き払った奇妙なようすをしている。
 ところで、その眼たるや、ちょっと形容しかねるような物凄いようすをしている。ひと口に言えば、烏眼《くろめ》が画鋲の頭ほどの大きさしかなくて、白眼がひどく幅をきかせている。西洋ふうに言えば「凶眼《ベーゼル・プリッツ》」日本ふうに言えば、れいの四白眼。その代表的なやつなんだからタジタジとなった。これゃア、えらいやつが現れて来たと思って、すくなからず萎縮していると、犂の先生は、いやに指の長い、仏手柑《ぶしゅかん》のような、黄ばんだ瘠せた手を差しのべながら、海洞《ほらあな》へ潮が差し込んで来るような妙に響のない声で、
「わたくしがゴイゴロフですが、あなたは?」
 と、言いながら、いま言った、あまりゾッとしない眼でまともとこちらの顔を眺めた。
 それにしても、これがゴイゴロフなら、石亭先生の描写した人間とはだいぶ懸隔《へだたり》があるようだ。先生の言われたところでは、おい、禿頭、ちょいと甘い話があるからひと口のせてやろうか、といったような横着な口吻《こうふん》でものを言う男だったが、見るところ、このゴイゴロフは、一種の沈鬱的人物であって、どこを叩いても、そんな陽気な調子が出てきそうもない。のみならず、こういう区域《カルチェ》の人民とは思われないほどテニヲハがはっきりしていて、悪《わる》丁寧なほど慇懃懇切を極める。
 身装《みなり》も、それに準じて、スマートとはゆかないまでも、一応、さっぱりした見かけをしている。スフ入りはスフ入りだが、膝も丸くなっていないし、衣嚢《ポーシュ》もたるんでいない。なにか一期の晴着といった改まった感じで、その後このことを思い合して、この印象が決して間違いでなかったことを、むしろ薄気味悪くさえ思った。
 おそらく、ゴイゴロフに手を差しのべさせたまま、やや長い間、薄ぼんやりと相手の顔を眺めていたのに相違ない。ゴイゴロフは、もう一度、同じことを繰り返した。
「わたしはカラスキー・ゴイゴロフですが、あなたは、どなたでしょう。どういうご用事ですか」
 こちらは肺病やみの盗っとと掛合うつもりで来たのだったが、こんなふうに開き直られたのですっかり面喰ってしまった。へどもどしながら、山川石亭先生が急病で、不本意ながらあなたとのお約束を果すことができなくなったという意味のことをはなはだ曖昧に吐露した。
 これを言い終った末、いったい、どんな波瀾が捲き起されるか。これこそは、相当、凄味《スリル》のある瞬間だった。
 ところで、カラスキー氏は、大して驚いたようなようすもしない。それどころか、叙景的にいえば、雨雲の間からぼんやり秋の薄陽が洩《も》れて来るようなしんねりとした微笑が、色の褪めたような顔のうえに射しかけてきた。たしかにこれは意外だったので、いよいよもって度胆を抜かれた。
 カラスキーは、そういう微妙な薄笑いをしながら、れいによって、非凡な四白眼でこちらの眼の中を覗き込みながら、
「すると、ムッシュウ・ヤマカワは、だいぶ恐慌していられるのでしょうね」
 どうも、話がだいぶ喰い違ってきた。有体《ありてい》に白状すべきかどうか、さんざ迷ったすえ、とりあえず、こんな具合に当り触りのないことを言ってみる。
「ええ、どうも、それがねえ、いっこう、とりとめがなくて」
 カラスキーは、肱をとって、ゆっくりと隅のほうへ連れて行き、そこの椅子に掛けさせると、隠したって何もかも先刻ご承知だという顔で、
「わかっています。相当念入りにやったつもりですから、おそらく、先生は慄え上っていられるでしょう。……わたくしはムッシュウ・ヤマカワが道徳社会学を専門にやっていられる篤実な学者《サヴァン》だということをよく知っているんです。……ところが、どういうものか、先生は、たいへんに悪党振られる。すっかり悪徒気取りで、去年の三月には、国立割引銀行《デスコント・ナショナル》の使童《グルウム》を襲って三千|法《フラン》ばかりせしめたの、体育場《イッポドローム》の出札嬢を威《おど》して有金残らず頂戴してきたことがあるのと途方もないことを言われるのですな。こいつを、見当ちがいな隠語《アルゴ》まじりかなんかでやるんですから、聞いていると、噴き出さずにはいられないんです。……こっちがいっこう相手にしないもんだから先生|焦気《やっき》となりましてね、これでもか、これでもかというふうに、一日ましに法螺《ほら》の桁がひとつずつ上ってゆくんです。このごろは、金高のほうも相当莫大になりましてね、二十万|法《フラン》ばかりのところへ行っているんです。……人間《ひと》もだいぶ殺しましたねえ。わたくしの知ってるところでは、坊さんが三人、タキシーの運転手が二人、歯医者が一人に造花屋の女工《ミジネット》が一人。……だいたい、こういった塩梅《あんばい》なんです。たいへんな虐殺です。ここへ来る連中も、とても先生には敵《かな》わないということになってしまって、まるで腫物にでも触るようにビクビクして、うっかりそばへも寄りつけないようなありさまなんです。実際ね、先生にとっ捕まっちゃ百年目。この世に有りとあらゆる悪事の総|浚《ざら》いをされるんだから、たいがい茹《ゆだ》ってしまうのです。放っておくと手に負えないことになりそうなので、今日の昼、出鱈目なことを言って、ちょっと先生を威かしてみたんですが。……どうです、薬が効いたようでしたか? あの臆病な先生のことだから、さぞ、仰天なすったことでしょうね」
 いやはや、とんだことを聞くものだ。先生が、こんなところでそんな馬鹿の限りを尽していられようとは、さすがに知らなかった。同国
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