郎さん」
 跳ね上げた、大きな黒マントの下から、白い細い手が二本、抱き寄せようとでもするように、竜太郎の方に、突き出されている。
「……竜太郎さん、……竜太郎さん。早く、早く。……どうぞ、この馬車へ! 追手が来ますから……」
 声の主は、エレアーナ王女だった。白い美しい面輪の中に、不安と恐怖の色をうかべながら、息も絶えだえに叫んでいる。
「早くして、ちょうだい。どうぞ、早く」
 竜太郎は、ひと跳びに馬車の方へ跳んで行って、その中へ転げ込んだ。
「エレアーナ!」
「あなた……あなた。……死ぬまでかわらないと誓ったでしょう。どうぞ、わたしといっしょに、死んで、ちょうだい」
 返事の代りに、竜太郎は王女の身体を、精いっぱい抱き締めた。力のあらん限り。
 馬車は、国境に向って、走り出した。馬を御しているのは、敏感そうな顔をした、あの、ヤロスラフ少年だった。

「墓地展望亭」の窓が暮れかけて、二人の顔が、薄闇のなかに、ぼんやりと白く浮いていた。窓から射し込む桃色の余映が、王女の頬の上にたゆたって、ちょうど、そこに、薔薇の花でも咲き出したように見えるのだった。
 志村氏が、つづけた。
「……二人は、もちろん、助かろうとは思っていなかった。追手がかかるくらいだから国境の哨所《ポスト》には、もう電話がいってることでしょうし、行けば、捕まるにきまってるでしょう。……捕まるとどうなるんです。私が撃ち殺されるのは言うまでもないが、エレアーナは連れ戻されて七十になる大公と結婚させられるか、さもなければ、死ぬまで修道院にでも押しこめられて、死んだような一生を送らなければならない。……唖者の真似までして、大公との結婚を避けていたことがわかったら、とても、無事には済みませんよ、これぁ。……それで、エレアーナが言うんです」
 そう言いかけて、愛しくてたまらないというようなふうに、思いの深い眼差で王女の顔を眺めて、
「それで、あの時、あなた、なんと言ったんだっけね」
 王女は、この世のものとは思われないような、たおやかな微笑を浮べて、
「撃ち殺されるまでも、国境を突破しましょうって……」
 そして、あどけなく首をかしげて、考えるようなふうをしながら、
「ええ、そうでしたわ」と、優しく、つけ加えた。
 ほんとうに、不思議な境遇《シチュアション》を経た二人だといわなければなるまい。私としても、これほどの波瀾にあやなされた人達に廻り会うこともあるまいと思うと、なかなか別れがたない思いがする。
 二人の話によると、エレアーナ王女は、大叔母のマラコウィッチ大公妃のとりなしで、巴里の市外にある、サント・ドミニック修道院に入って、そこで死んだ形式になり、一平民として、仏蘭西に帰化して、志村氏と結婚したのだそうだった。

 毎月の八日に、じぶんの墓に花を置きに来るのは、つまり、激しい日の追憶を新たにして、現在の幸福に、いっそう深く酔おうとするためなのである。



底本:「久生十蘭全集 6[#「6」はローマ数字、1−13−26]」三一書房
   1970(昭和45)年4月30日第1版第1刷発行
   1974(昭和49)年6月30日第1版第2刷発行
初出:「モダン日本」
   1939(昭和14)年7月〜8月
※底本の二重山括弧は、ルビ記号と重複するため、学術記号の「≪」(非常に小さい、2−67)と「≫」(非常に大きい、2−68)に代えて入力しました。 
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2009年10月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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