そばまで歩いて行き、そこの床のうえに落ちていた、白い大きな角封筒をとり上げて、無言のままで、竜太郎のほうへ差し出した。
 竜太郎は、懐しいものに廻り会ったように、急いで、封筒から写真を引き出した。
 同じ写真にちがいない。……が、どこか微妙に、ちがっていた。長い間肌につけていたので、竜太郎の持っていた写真は、すっかり角が丸くなっていたのに、この写真はそこへ指を当てると、ちくりと針のように刺した。写真の下の献辞の文字もよく似ているが、どことなく丸味があって、たしかに別な人の筆蹟だった。写真を横にして、薄光にてらしてみると、そのインクは、いま書いたばかりのように生々しかった。
 そればかりではない。写真を目に近づけた途端、何ともいえぬふくよかな匂いが、竜太郎の嗅覚にまつわりついた。
 あの匂いだ!
 あの少女が、身にしめていた、高貴な、そのくせ絡みつくようなところのある、言い表わしようもない、ほのぼのとした、あの香水の匂いだった。
 竜太郎は、卒然たる感情に襲われて思わず眼を閉じた。
 さまざまなことを、何もかにも、いっぺんに了解した。王女は、やはり、あの夜の少女だった。
(あの古びた写真のかわりに、新しい写真を、わざわざヤロスラフ少年に持たして寄越したのだ)
 たとえようのない愉悦の感情が、あたたかく心をひたし始めた。じぶんが願っていたのは、こういう、ちょっとした厚意……それだけでよかったのだ。これで、もう、思い残すことはなかった。明るい太陽の光が、心の隅々まで射しかけ、歌いだしたいような快活な気持になった。
 そして、これを、自分にくれたわけは?……竜太郎には、その意味がはっきりとわかっていた。
(それで、いいのだ)
 竜太郎が、たずねた。
「……つまり、これを持って、あきらめて帰ってくれとおっしゃるんだね」
 ヤロスラフは、答えなかった。眼に見えぬほど、その頬が、紅潮した。
 竜太郎はつづけた。
「よくわかりました。僕は今晩マナイールを発ちます。……王女の御厚意は終生忘れませんと言っていたと、お伝えしてください。御幸福を祈っていますと……」
 ヤロスラフ少年が、いった。
「お送りします。自動車が、もう、参っております」
 竜太郎は、頭をさげた。

    十三

 嶢※[#「山+角」、145−下−8]たる岩山に沿った泥濘の道を、自動車は、どこまでも走って行く。夜は暗く、深かった。宵のうちに、ちらと月影がさしたが、間もなく、また暗澹たる黒雲におおわれてしまった。ただ見る赭土の丘と、岩とわずかばかりの泥楊だけの、荒涼たる風景だった。風が吹いているとみえ、楊がゆるやかに体をゆすっていた。
 どこへ連れてゆかれるのか、竜太郎は、まるっきり知らなかった。停車場へ行くのかと思っていると、そこを右に折れて、人家のまばらな郊外の方へ出て行く。これで、もう、一時間も、走りつづけているのだった。
 岩山の裾を廻ると、はてしもない黒い原野が、眼の前に展けてきた。
 とつぜん、自動車が停った。
 肩幅の広い、武骨なようすをした運転手が、自動車の扉を開けると、竜太郎の旅行鞄を車からひき出し、それを、泥濘の上へおいた。
「|ここで、お降り願います《プリーズ ダウン・ヒア》」
 竜太郎は、呆気にとられて、その顔を眺めていた。
 運転手は、もう一度繰り返した。
「ここでお降り願います」
 その声の調子のなかに、抵抗しがたい、強圧するような調子があった。竜太郎は、車から降りた。
 竜太郎を車から降ろすと、自動車は、赤い尾灯《テール・ランプ》を光らせながら、いま来た方へ走り去ってしまった。
 竜太郎は、鞄の上に腰をかけて、改めてこの荒漠たる風景を眺めわたした。月もなく星もなく、ただ一面に黒々とした、空寂な世界だった。こんな暗い荒野に、ひとり、ぽつんと投げ出されては、どうしよう術もなかった。この道は、たぶん国境のほうへ通じてるとすれば、いずれ、自動車ぐらいは通るだろう。そのうちに夜も明けるだろうし……。
 竜太郎は、ここで、腰を据える気になって、ゆっくりと、煙草をくゆらしはじめた。
 遠くのほうから、早駆する馬の蹄の音と、轢轆とした轍の音が聞えてきた。何か殺気をおびた、襲いかかって来るような気勢があった。
 竜太郎の脳裏を、チラと、切迫した感情が掠めた。
(ひょっとすると、おれを、ここで、殺るつもりなのかも知れないぞ!)
 その理由を考える間もなく手は反射的に、ズボンのポケットへゆき、拳銃をとり出して、安全器をはずしていた。
 馬車が近づいて来た。竜太郎から、一間ほど隔ったところで停った。竜太郎は、思わず、身をひいた。
 馬車の中で、何か、短かい、甲高い声で、切れぎれに叫んでいる。竜太郎は、じぶんの耳を疑った。
「……あなた、……あなた。……竜太郎さん、……竜太
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