、このマナイールでは、ヤロスラフ少年の他にはいない。そういえば、いかにもありそうなことだった。……しかし、いったい、何のために? この謎はどうしても解けなかった。
謁見式の時間がきた。
出御を知らせる、杖で床を打つ音が重々しく響きわたった。謁見者の群は、水でも引くように、等分に左右に別れて整列した。
謁見式の大扉は、しずかに引き開けられた。燃えるような真紅の絨氈のはるか向う端に、天蓋をつけた王座も見え、そこには黒い差毛をした、白色の大マントをゆたかに羽織ったひとの姿が見えていた。
竜太郎の胸の鼓動が、遽に劇しくなった。
式部長官が、朗詠するような調子で、次ぎつぎに謁見者の名を読みあげる。
「ルドルノ・ロータル……。ミカエル・ストロエウィッチ……。イヴァン・ヴィニェット……。サア・ダグラス・バンドレー……」
そして突然に、
「竜太郎《リュウタロ》・志村《シムーラ》……」と、呼んだ。
前へ進むつもりなのが、どうしたはずみか、二三歩後によろけた。それから、改めてやり直した。
竜太郎は、慇懃に頭を下げ、じぶんの靴の爪先を眺めながら、しずかに王座に向って歩きだした。
毛の長い絨氈のなかへ、一歩ずつ足がすいとられる。まるで、雲にでも乗ってるような心地だった。この燃えるような赤い通路の両側には、ここにも、政府の高官らしい人たちが威儀を正して整列していた。
王座までの道のりは、長かった。行けども行けどもの感じだった。知らぬ野道で日が暮れかかったようなたった一人ぼっちになったような、何ともいえぬ頼りない気持だった。間もなく、じぶんの正眼で、あの夜の※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]たけた少女の顔を眺めることが出来るという思いだけが、竜太郎を元気づける。
ようやく、王座の大理石の階の第一階が視野の中に入ってきた。つづいて第二階、……第三階。竜太郎は、そこで立ち停って、低く頭をさげ、それから、さらに、一歩前へ進む。
竜太郎は、ゆるやかに、ゆるやかに、頭を上げる。長い裳裾の下から覗き出した金色の靴の爪先が見える。気が遠くなるような一瞬だった。
竜太郎の胸は、大きく波打ち、心臓はいまにも肋骨の間から飛び出そうとでもするように、激しく躍り立つ。
(この一瞬のために!)
この一瞬のために、このバルカンの国へ、はるばる巴里からやって来たのだった。この長い間の狂熱、やるせない嗟嘆、感傷も、憧憬も身もほそる恋情も、何もかもひっくるめて、一瞬の後に、酬いられようとしている。
じぶんの腕の包囲のなかにとり込めて、睦言し、涙を流し、愛撫し、幾度も誓ったあの夜の少女は、いま、じぶんと咫尺を隔てて坐っている。
竜太郎は、恍惚たる情感に身も心も溺らせながら、また、ゆるゆると顔をあげてゆく。
膝が見える。それから、白い、小さな手が見える。デコルテの胸に金剛石を鏤めた大星章が煌めいている。美の資源ともいうべき、楕円形のかたちのいい顎が、見える……「あの夜の少女」だった!
心を吸いとるような、深い黒い瞳。……しずかに、涙あふらした、あの眼だった。早咲の真紅の薔薇が、そこに落ち散っているような、美しい唇。……それは、あの夜、いつまでも、かわらないと誓ってちょうだい、と叫んだ、あの唇だった。寛濶な新月の眉も、清純な頬の色も、何もかも、あの夜のままだった。
(ああ、とうとう……どんなに、逢いたかったか!)
胸もとに激情がこみ上げてきて、あやうく、そう、叫び出すところだった。
ところで、どうしたというのだろう。女王は、遠いところを眺めるような、ぼんやりとした眼付きで、ほのぼのと竜太郎の顔を見返している。どういう感情の動きも、心理の反射も、そこには見られなかった。
(女王は、おれを、忘れている)
あのようなこまやかな「時」のあとで、その相手を見忘れるなどということがあるべきはずはない。……しかし女王の顔は、初見の人を眺める、あの冷淡な「他人の顔」だった。
(女王は、まるっきり、じぶんを知らないのだ!)
竜太郎の心は、この突然の混乱で、支離滅裂になってしまった。じぶんがいま、何を考えているのか、てんでわからなかった。
謁見室の入口で[#「入口で」は底本では「人口で」]、式部長官が、次の謁見者の名を披露している。
「ニコラス・ウォロスキー。……カルニヤ・ブレビッグ……」
もう御前を退出しなくてはならない。
しかし、どうしても、これでは、諦めかねた。竜太郎は、軽く、半歩前へ歩み出ると、女王の眼を瞶めながら、必死のいきおいで、囁いた。
「女王殿下、もう、お忘れですか? 私は、あの夜、サヴォイ・ホテルの土壇《テラス》でお目にかかった、志村竜太郎です。志村……」
女王の表情は、風のない日の沼のように静まりかえっていて、小波ひ
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