暗く、深かった。宵のうちに、ちらと月影がさしたが、間もなく、また暗澹たる黒雲におおわれてしまった。ただ見る赭土の丘と、岩とわずかばかりの泥楊だけの、荒涼たる風景だった。風が吹いているとみえ、楊がゆるやかに体をゆすっていた。
 どこへ連れてゆかれるのか、竜太郎は、まるっきり知らなかった。停車場へ行くのかと思っていると、そこを右に折れて、人家のまばらな郊外の方へ出て行く。これで、もう、一時間も、走りつづけているのだった。
 岩山の裾を廻ると、はてしもない黒い原野が、眼の前に展けてきた。
 とつぜん、自動車が停った。
 肩幅の広い、武骨なようすをした運転手が、自動車の扉を開けると、竜太郎の旅行鞄を車からひき出し、それを、泥濘の上へおいた。
「|ここで、お降り願います《プリーズ ダウン・ヒア》」
 竜太郎は、呆気にとられて、その顔を眺めていた。
 運転手は、もう一度繰り返した。
「ここでお降り願います」
 その声の調子のなかに、抵抗しがたい、強圧するような調子があった。竜太郎は、車から降りた。
 竜太郎を車から降ろすと、自動車は、赤い尾灯《テール・ランプ》を光らせながら、いま来た方へ走り去ってしまった。
 竜太郎は、鞄の上に腰をかけて、改めてこの荒漠たる風景を眺めわたした。月もなく星もなく、ただ一面に黒々とした、空寂な世界だった。こんな暗い荒野に、ひとり、ぽつんと投げ出されては、どうしよう術もなかった。この道は、たぶん国境のほうへ通じてるとすれば、いずれ、自動車ぐらいは通るだろう。そのうちに夜も明けるだろうし……。
 竜太郎は、ここで、腰を据える気になって、ゆっくりと、煙草をくゆらしはじめた。
 遠くのほうから、早駆する馬の蹄の音と、轢轆とした轍の音が聞えてきた。何か殺気をおびた、襲いかかって来るような気勢があった。
 竜太郎の脳裏を、チラと、切迫した感情が掠めた。
(ひょっとすると、おれを、ここで、殺るつもりなのかも知れないぞ!)
 その理由を考える間もなく手は反射的に、ズボンのポケットへゆき、拳銃をとり出して、安全器をはずしていた。
 馬車が近づいて来た。竜太郎から、一間ほど隔ったところで停った。竜太郎は、思わず、身をひいた。
 馬車の中で、何か、短かい、甲高い声で、切れぎれに叫んでいる。竜太郎は、じぶんの耳を疑った。
「……あなた、……あなた。……竜太郎さん、……竜太
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