そばまで歩いて行き、そこの床のうえに落ちていた、白い大きな角封筒をとり上げて、無言のままで、竜太郎のほうへ差し出した。
竜太郎は、懐しいものに廻り会ったように、急いで、封筒から写真を引き出した。
同じ写真にちがいない。……が、どこか微妙に、ちがっていた。長い間肌につけていたので、竜太郎の持っていた写真は、すっかり角が丸くなっていたのに、この写真はそこへ指を当てると、ちくりと針のように刺した。写真の下の献辞の文字もよく似ているが、どことなく丸味があって、たしかに別な人の筆蹟だった。写真を横にして、薄光にてらしてみると、そのインクは、いま書いたばかりのように生々しかった。
そればかりではない。写真を目に近づけた途端、何ともいえぬふくよかな匂いが、竜太郎の嗅覚にまつわりついた。
あの匂いだ!
あの少女が、身にしめていた、高貴な、そのくせ絡みつくようなところのある、言い表わしようもない、ほのぼのとした、あの香水の匂いだった。
竜太郎は、卒然たる感情に襲われて思わず眼を閉じた。
さまざまなことを、何もかにも、いっぺんに了解した。王女は、やはり、あの夜の少女だった。
(あの古びた写真のかわりに、新しい写真を、わざわざヤロスラフ少年に持たして寄越したのだ)
たとえようのない愉悦の感情が、あたたかく心をひたし始めた。じぶんが願っていたのは、こういう、ちょっとした厚意……それだけでよかったのだ。これで、もう、思い残すことはなかった。明るい太陽の光が、心の隅々まで射しかけ、歌いだしたいような快活な気持になった。
そして、これを、自分にくれたわけは?……竜太郎には、その意味がはっきりとわかっていた。
(それで、いいのだ)
竜太郎が、たずねた。
「……つまり、これを持って、あきらめて帰ってくれとおっしゃるんだね」
ヤロスラフは、答えなかった。眼に見えぬほど、その頬が、紅潮した。
竜太郎はつづけた。
「よくわかりました。僕は今晩マナイールを発ちます。……王女の御厚意は終生忘れませんと言っていたと、お伝えしてください。御幸福を祈っていますと……」
ヤロスラフ少年が、いった。
「お送りします。自動車が、もう、参っております」
竜太郎は、頭をさげた。
十三
嶢※[#「山+角」、145−下−8]たる岩山に沿った泥濘の道を、自動車は、どこまでも走って行く。夜は
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