とつ立たなかった。どのような、感情の翳も……。
 はじめて、了解した。
(忘れたふりをしているのだ!)突っ放されてしまった。……この、感じは、すこし、つらすぎた。(やはり謁見式なんかにやってくるんじゃなかった。……はじめから、わかりきっていることを……)
 次ぎの謁見者の跫音が、すぐじぶんの後に迫って来た。もうどうすることも出来ない!
 竜太郎は、最敬礼をすると、低く頭をたれたまま後退りに三歩あるき、それから、耐えがたい憂愁を心に抱きながら、しおしおと、炎の道を戻り始めた。
 待合室《サール・ダッタント》の入口のところで、文部次官が、追い縋って来た。竜太郎の腕をとって部屋の片隅に引いて行きながら、すこし気色ばんだ、圧しつけるような声でいった。
「ムッシュ・シムラ。……三月二五日の、戴冠式の前日のレセプションのこともありますから、ご注意までに申し上げるのですが、女王殿下に言葉をお掛けするようなことは、絶対に、慎んでいただかなければ……」
 竜太郎は、遣る瀬ない憤懣の情から、思わず鋭い声で訊きかえした。
「お祝いの言葉を言上することも、慎まなければならないのですか」
 文部次官は、うなずいた。
「たとえ、どんなことがらでも!」
「それは、なぜ?」
 文部次官は、竜太郎の耳に口をあてて、囁いた。
「女王殿下は、唖者であられるのです」

 それから、三時間ほどののち、竜太郎は、ガリッツィヤ・ホテルの長い廊下を歩いていた。黄昏の色が濃くなって、廊下の隅々が、おんどり[#「おんどり」に傍点]と闇をたたえていた。
 ソルボンヌ大学のダンペール先生のところで、写真の主がリストリア国の王女だと知ってから今日まで竜太郎の胸のうちに育まれていた夢想も、希望も憧憬も、一挙にして跡形もなく、消え失せてしまった。……竜太郎の夢は、死んだ。
 今日まで、ひとすじに憧れわたったその人は、縁もゆかりもない、まったくの別人だった!
 竜太郎は、自嘲の色をうかべながら、こんなふうに、つぶやく。
「おれは、いったい、何という、夢をみたんだ」
 片腹いたくもあり、滑稽でもあった。竜太郎は、ためいきをつく。
「また、始めからやり直さなくてはならない」
 竜太郎は、悒然とした面持でじぶんの部屋の扉の前に帰りついた。
 ふと、妙なことを発見して、厳しく、眉をひそめた。どうしたというのだろう。たしかに鍵をかけて出た
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