。この長い間の狂熱、やるせない嗟嘆、感傷も、憧憬も身もほそる恋情も、何もかもひっくるめて、一瞬の後に、酬いられようとしている。
じぶんの腕の包囲のなかにとり込めて、睦言し、涙を流し、愛撫し、幾度も誓ったあの夜の少女は、いま、じぶんと咫尺を隔てて坐っている。
竜太郎は、恍惚たる情感に身も心も溺らせながら、また、ゆるゆると顔をあげてゆく。
膝が見える。それから、白い、小さな手が見える。デコルテの胸に金剛石を鏤めた大星章が煌めいている。美の資源ともいうべき、楕円形のかたちのいい顎が、見える……「あの夜の少女」だった!
心を吸いとるような、深い黒い瞳。……しずかに、涙あふらした、あの眼だった。早咲の真紅の薔薇が、そこに落ち散っているような、美しい唇。……それは、あの夜、いつまでも、かわらないと誓ってちょうだい、と叫んだ、あの唇だった。寛濶な新月の眉も、清純な頬の色も、何もかも、あの夜のままだった。
(ああ、とうとう……どんなに、逢いたかったか!)
胸もとに激情がこみ上げてきて、あやうく、そう、叫び出すところだった。
ところで、どうしたというのだろう。女王は、遠いところを眺めるような、ぼんやりとした眼付きで、ほのぼのと竜太郎の顔を見返している。どういう感情の動きも、心理の反射も、そこには見られなかった。
(女王は、おれを、忘れている)
あのようなこまやかな「時」のあとで、その相手を見忘れるなどということがあるべきはずはない。……しかし女王の顔は、初見の人を眺める、あの冷淡な「他人の顔」だった。
(女王は、まるっきり、じぶんを知らないのだ!)
竜太郎の心は、この突然の混乱で、支離滅裂になってしまった。じぶんがいま、何を考えているのか、てんでわからなかった。
謁見室の入口で[#「入口で」は底本では「人口で」]、式部長官が、次の謁見者の名を披露している。
「ニコラス・ウォロスキー。……カルニヤ・ブレビッグ……」
もう御前を退出しなくてはならない。
しかし、どうしても、これでは、諦めかねた。竜太郎は、軽く、半歩前へ歩み出ると、女王の眼を瞶めながら、必死のいきおいで、囁いた。
「女王殿下、もう、お忘れですか? 私は、あの夜、サヴォイ・ホテルの土壇《テラス》でお目にかかった、志村竜太郎です。志村……」
女王の表情は、風のない日の沼のように静まりかえっていて、小波ひ
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