また、寝台の側までもどって来た。夜卓の上に、写真はなかった。
(窓を閉めて寝たのだから、風で吹き飛ぶはずもないが……)
 夜卓の下を覗いてみた。が、なかった。周章《あわて》て寝台の下を覗いたが、そこにも、なかった。竜太郎は、錯乱したように、膝で床の上を匍いまわった。化粧台の後、鞄の下、衣裳戸棚の抽斗……。服は全部鞄からひきずり出してふるってみた。最後に、浴室の中まで調べた。結局、どこにも見当らなかった。
 竜太郎は、部屋の真中で棒立ちになった。昨夜たしかに枕もとにおいたものがないとすれば、盗まれたと思うよりほかはない。
 どうしても、その真意が掴めなかった。
「いったい、これは、どういう意味なんだ」
 旅行免状もある。文部次官への紹介状もある。やはり、夜卓の上に投げ出しておいた、かなり多額の磅《ポンド》紙幣と、巴里のナショナル・エスコートで振出した旅行信用状《トラベラーズ・チェック》の入った札入などは、手もふれたようすがなかった。ただひとつ、王女の写真だけが盗まれている。訝しいというほかなかった。
 のしかかるような圧力が、ジリジリ心を圧しつける。こうしている、この瞬間も、何者かの執拗な眼で、じっと看視されているのではないかというような気がする。
 竜太郎は、嶮しい眼付で、ぐるりと部屋のなかを見まわした。運河に臨んだ窓が三つ。扉は、浴室につづくのと、廊下に向った二つだけ。
 竜太郎は、急に身をひるがえすと、ひと跨ぎに廊下の扉のところまで飛んで行き、力いっぱいにそれを蹴開けた。
 一人の人影もなかった。長い廊下の端で、窓掛が風にゆれているだけだった。息苦しいほどの緊張が全身をひきしめる。遠い昔に忘れていた、一種決然たる闘志が発刺と胸に甦ってきた。われともなく、拳を握った。
「そういうわけなら、こちらにも覚悟があるぞ!」
 それにしても、この長い間、じぶんの懐で温めていた、あの、かけ替えのない写真を盗まれたことは、どうにも諦めかねた。じぶんの身体の中の一番大事な部分が、そのままそっくり抜きとられたような遣る瀬なさを感じた。
 竜太郎は、腹の底から怒りがこみ上げてきて、調子はずれな声で、叫んだ。
「畜生! どんな汚い手で浚っていきやがったんだ。……どんなことがあったって、取りかえさずにおくものか」
 じぶん自身、その写真を、マラコウィッチ伯爵夫人の門番の家から、盗み出し
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