エレアーナ王女は、白い夏の装いで、大理石の広い階段の第一階に、寛濶な面もちで立っている。
竜太郎は、指の先で、転くそこここと写真にさわりながら、こんなふうに、呟く。
「君は、王女などでなければよかったんだ。……あの夜、ホテルの土壇で、海に向って泣いていたわけが、今こそ、うすうすわかるような気がする。……何か、さまざまと苦しいことがあるのにちがいない。……僕はこうして、君の写真を眺めてためいきをついているだけで、どうしてあげることも出来ないが、どうか、あまり不幸にならないように、どんなに不幸になっても、せめて、生きてだけはいてくれたまえ」
どんなふうに祈るのか、その術を知らないのが情けなかった。そのくせ、いつの間にか、絨氈の上に膝をついて、
「南無観世音、南無観世音……」
と、ただそれだけのことを、いつまでも繰り返していた。
九
夜明けに近いころ、遠くで、さかんな機関銃の音がしていた。単音符を打つような、鋭い、そのくせ陰性な音を、竜太郎は、浅い夢のなかで聞いていた。
もう、十時を過ぎていたが、窓の外は、払暁前のような曖昧なようすをしていた。運河の河岸に片寄せられた浚渫《しゅんせつ》船の赤錆びたクレーンの上に、鴎が二三羽とまっている。暗澹たる黒い空のなかでそれが、二つの白い点のように鮮かに浮び上っている。河には動きまわる一艘の船もなかった。
澱んだような鉛色の水が、小波ひとつ立てずにのたりと流れ、サロニカ風の奇妙な破風を持った、古びた家々がしずかに影をおとしている。そのなかに、息づまる擾乱を孕んだような不気味な静寂さだった。
竜太郎は、いま、この首府に起こりかかっている騒擾の真相を読みとろうとでもするかのように、鋭い眼差しで、この陰険な風景を眺めていた。
どんな手段をつくしても、エレアーナ王女の消息を尋ねなければならない。その他のことは、どうでもよかった。ただ、王女の安否だけを……。
急いで、服に着替えた。バンドを締める手に、ミリミリと力がはいった。
「廻りっくどいことはいらない。査証を受けに行ったついでに、軍司令部へじかにぶつかってみてやれ。それでいけなければ、文部次官のところで……」
部屋を出ようとして、習慣的に、左の手が胸の衣嚢のところへいった。
(そうそう、昨夜枕もとの夜卓《ターブル・ド・ニュイ》の上へ立てかけておいたんだっけ)
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