(あの少女は、おれのものだ。……たとえ王女であろうと、なんであろうと……)
 あの夜、竜太郎の胸の中で、少女が、叫んだ。
「あたしは、もう、あなたのものよ。……あなただけのもの。……どうぞ、いつまでもかわらないと、誓って、ちょうだい」
 絶え入るように、いくども、いくども、くりかえす。
 しかし、明日になれば、地中海の碧い水のうえに、脳漿を撒きちらして自殺するじぶんなのだから、どのような誓いも無益である。黙らせるために、自分の唇で少女の口をふさいでしまった。やはり、どこか、心がしらじらとしていて、調子を合せるほど無邪気にはなれなかった。そんなことは、どうでもよかった。
 自殺するはずの、じぶんが、それを実行し得なかったのは、思いがけない急転換《クウ・ド・チアトル》のせいである。もう会えないかもしれないという、その思いが恋情を駆りたてた。……しかし、じぶんが身も※[#「宀/婁」、124−下−6]《やつ》れるまで、あの少女を恋いわたるようになったのは、ただそれだけのためであろうか。じぶんの心は、はっきりと(いな!)とこたえる。少女の誠実と無垢な愛が、じぶんの心情を刺し貫いたためである。へなちょこなじぶんの根性は、純真な愛の平手で横ッ面をぴしゃりとやられ、深いところで昏睡していた本心が、びっくりして眼をさまして、おやッ、と思った。こんな無垢な愛情には終生、二度とめぐりあうことはないぞ。いつのまにかこちらも、命をかける気になっていた。
 ところが、ソルボンヌ大学の教授室で、あの夜の少女がリストリアの王女だとわかると、持ちまえのへなへな[#「へなへな」に傍点]心は、一夜の気まぐれに弄ばれたのだと頭からきめ込んでしまった。それならそれで諦めでもすることか、不甲斐ない恋情で身をやつらせ、未練がましく悶えたり恨んだりしていた。
(あたしは、あなただけのものよ)
 たとえ、それが恍惚のときの狂熱の叫びであろうと有頂天の間の囈言《うわごと》であろうと、かりにも、じぶんの耳が聞いたその言葉を、なぜ、そのままに信じられないのか。そればかりか、相手が王女だと聞くと、これはいけないと、尻込みしてしまった不甲斐なさはなんという確信のなさ。なんという熱情の乏しさ。
 日本にいた頃の竜太郎は、蕩児は蕩児なりに、多少ずばぬけたところを持っていた。気概も気魄もある男だった。
 欧羅巴を放浪し始めてから十
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