の気質の中へはるばるとやってきたことをつくづくと感じた。
空は低く、重苦しく、物悲し気だった。
乳白色の濃い霧の間から、冷涼たるコンスタンツァの原野の景色が、時々、ぼんやりとよろめき出してはまた、漠々とその中へ沈んでゆく。――うち挫がれたような泥楊の低い列。霧に濡れながら身を寄せ合っているわずかばかりの羊の群。赤土の裸の丘と、嶢※[#「山+角」、123−下−5]《ぎょうかく》たる岩地。
陽が暮れかけてきて、天地の間の沈鬱なようすは一層ひどくなった。うち沈み、歎き、悼み、一瞥にさえ心の傷む風景だった。
竜太郎は、車窓の窓掛をひき、固い隔壁に凭れて眼をとじる。
バルカンの沈鬱な風景も、荒々しい気質も、猥雑な乗客の群も、竜太郎になんの感じもひき起こし得なかった。巴里の里昂停車場を発ってから、この三日の長い旅の間、竜太郎の思いは、たったひとつのことに凝集されていた。それは、(戴冠式の馬車に向って、真直ぐに歩いて行こう)ということである。
……白い鳥毛の扁帽を冠った前駆の侍僮が、銀の長喇叭《トロンペット》を吹いて通りすぎる。……ピカピカ光る胸甲をつけた竜騎兵の一隊。……十二人の楯持《エキュイエール》が二列になって徒歩でつづく。王室の紋章を金糸で刺繍した美々しい陣羽織《レ・タバール》組。……槍の穂先をきらめかす儀仗の小隊。それから、いよいよ戴冠式のお馬車がやってくる。六頭の白馬に輓かせた金の馬車の中に、あの夜の少女がもの佗びた面もちで乗っている。
……一人の若い東洋人が、群集と警衛の憲兵の人垣の間から飛び出し、ゆっくりと馬車に向って歩いてゆく。……たぶん、五六歩。おそらく、それより多くはあるまい。……一発の銃声がひびきわたり、儀仗兵の拳銃の弾丸が、その胸の真ん中を射ぬく。……若い東洋人は、なんともつかぬ微笑をうかべながら、一瞬馬車の中の王女の顔を見つめ、ゆるゆると舗石の上に崩れ落ちると、それっきり動かなくなってしまう……五色の切紙が背の上におびただしく降り積み、テープの切れっぱしが、ヒラヒラといくつも首のあたりにまつわりつく。ちょうど祝宴の席で酔いつぶれてしまった、幸福な花婿のようにも見えるのである。……
巴里を発つ時は、街路樹の蔭からなりと、ひと眼見てこようと思っていた。ところで、汽車が動き出すと、とつぜん、思いがけない心の作用が、その決心を変えてしまった。
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