と、五日七日と餌を喰わさずにおいて放すのだから、敵勢の兜や鎧を見ると、勢い猛《もう》に襲いかかって行く。つまり、それと同じ方法で馴らしたものに相違ない」
「でも、あの薄刃《うすば》で斬ったような創《きず》はどうしたもんでしょう。鷲や鷹ならば、爪でグサリと掴みかかるにちがいないから、一つや二つの爪傷ではすみますまい」
「無学な徒と応対していると世話がやけてやり切れない。それくらいのことがわからんでよく御用聞が勤まるな。……言うまでもない、それは、趾《ゆび》をみな縛りつけ、その先に剃刀の刃でも結いつけてあるのさ。趾を縛っておけば、途中で棲《とま》れないから、襲撃をすませると真直に自分の家まで帰ってくるほかはない。つまり、一挙両得というわけだ」
「すると、あの抉《えぐ》れたような痕《あと》は」
「それは、短い外趾《そとゆび》の端が触れた痕だ」
「何のためにそんな手の込んだことを」
源内先生、閉口して、
「いや、諄《くど》い男だ。……こないだ路考が言葉尻を濁したが、わしの察するところでは、年に一度、十年がけの手紙というのを欝陶《うっとう》しがって、無情《すげ》ないことを言ってやったものと見える。その辺の消息は、一瓢《いっぴょう》がうすうす知っていて、帰りがけにわしにそんな風なことを囁いた。……つまり、この辺が落《おち》なのさ。年に一度の便りに深い思いを晴らしておるのに、それだけのことにまですげないことを言われたとなると、どっちみちおさまりかねる気持になる。いわんや、あのような濃情無比なお姫さまだからただではすまさない。路考が十年前に逢った時、二十八、九といえば、今はもう四十がらみ。自分の頽勢《たいせい》にひきかえて路考の方はいまだに万年若衆。江戸中の女子供の憧憬《あこがれ》を一身にあつめているというのだからいかにも口惜《くや》しい。路考を贔屓にする若い女はみな自分の仇だというような気になって理窟に合わぬ妬心《ねたみごころ》から、こんなことを始めたものと思われる。……それにしても、古い路考の色文を、うまい工合に使い廻して有頂天にさせて戸外《そと》へ引出し、鷲を使って殺《いた》めつけようなんてのは、あまりといえば凄い思いつき。名前の殺手姫というのはいかにも心柄に相応《ふさわ》しい。……今度ばかりは、わしも少々|辟易《へきえき》した」
といって、日差を眺め、
「おお、もう四ツか。こりゃ歩いてたんじゃ間に合わない。駕籠《かご》だ、駕籠だ」
多町《たちょう》の辻から駕籠に乗り、六阿弥陀《ろくあみだ》の通りを北へ一町、杉の生垣を廻した萩寺の前へ出た。
地境《じざかい》の端から草地になり、その向うに、おどろおどろしいばかりに壊《つい》え崩れた土塀を廻した古屋敷。
塀の中から立ち上った大きな欅の樹に、二つ三つ赤い実をつけた烏瓜《からすうり》が繞《から》み上って、風に吹かれて揺れている。
駕籠は萩寺の前で返し、草地を歩いて門の前。
門というのは形ばかり。土壊《つちくい》で土地が沈み、太い門柱が門扉《とびら》をつけたままごろんと寝転《ねころが》っている。小瓦の上には、苔《こけ》が蒼々《あおあお》。夏は飛蝗《ばった》や蜻蛉《とんぼ》の棲家《すみか》になろう、その苔の上に落葉が落ち積んで、どす黒く腐っている。
さて、門の前まで来は来たものの、あまり凄じいようすで、門扉《とびら》を押す気さえしない。
源内先生も、すこしゾクッとした顔で、恐るおそる喰い合せの悪い門扉の隙間から、内部《なか》を覗いていたが、とつぜん、
「おッ!」
と、つン抜けるような叫びを上げた。
「伝兵衛、あれを見ろ」
伝兵衛が覗いてみると、葎《むぐら》や真菰《まこも》などが、わらわらに枯れ残った、荒れはてた広い庭の真中に、路考髷を結い、路考茶の着物に路考結び。前髪に源内櫛を挿した等身大の案山子《かかし》が、生きた人間のようにすんなりと立っている。
庭の奥に、社殿造の、閉め込んだ構えの朽ち腐れた建物がある。屋根の棟に堅魚木《かつおぎ》などのせた、屋敷とも社《やしろ》ともつかぬ家の奥から、銀の鈴でも振るような微妙な音がしたかと思うと、櫺子《れんじ》を押上げて現れて来た、年のころ四十ばかりの病み窶《やつ》れた女。
どこもここも削ぎ取ったようになって、この身体に血が通《かよ》っているのか、蝋石色《ろうせきいろ》に冴《さ》え返り、手足は糸のように痩せているのに、眼ばかりは火がついたように逞ましく光っている。引き結んだ唇は朱の刺青をしたかと思われるほど赤く生々しい。これはもう人間の面相ではない、鬼界《きかい》から覗き出している畜類の顔。
ゾッとするような嫌味な青竹色の着物の袖を胸の前で引き合せ、宙乗りするような異様な足どりで廻廊の欄干のところまで出て来て、欅の梢を見上げながら、低く、一、二度口笛を吹いた。
たちまち、中空《なかぞら》に凄じい翔《かけり》の音が聞え、翼の丈、一間半もあろうかと思われる大鷲が、ゾヨゾヨと尾羽を鳴らしながら舞い降りて来て、むざんに案山子の頭に襲いかかったのである。
底本:「日本探偵小説全集8 久生十蘭集」創元推理文庫、東京創元社
1986(昭和61)年10月31日第1刷発行
1989(平成元)年3月31日4版
入力:川山隆
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年12月12日作成
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