い出したってしようがない。それどころじゃないんだから、憎まれ口なら後にしてもらおう」
長い顔を、路考の方へ振向けて、
「話はだいたい嚥《のみ》込んだが、十年前にさる人に、だけじゃ、どうも困る。どういう経緯《いきさつ》で、誰にやった手紙なのか、話していただくわけにはゆきませんか」
路考は、すぐ頷いて、
「大きな顔で申上げられるようなことでもありませんけど、隠していると何かご迷惑があるようですから、何も彼も包まず申上げます。……でも、ここはひとの出入りがはげしいから、むさ苦しいところですが、あちきの部屋までおいで願って……」
源内先生は、頷いて、
「あまり、手間はとらせないつもりだから、じゃ、そういうことにして……」
楽屋部屋へ通ると、路考は淑《しと》やかな手つきで煎茶をすすめながら、
「……その年の春、あちきは『さらし三番叟《さんばそう》』の所作だけで身体が暇なものでございますから、日頃ご無沙汰の分もふくめ、方々のお座敷を勤めておりました。そのうち、京都の万里小路《までのこうじ》というお公卿《くげ》のお姫さまの殺手姫《さでひめ》さまというお方にお見知りをいただき、その後二度三度、大音寺《だいおんじ》前の田川屋《たがわや》や三谷橋《さんやばし》の八百善《やおぜん》などでお目にかかっておりました。……そのころお年齢《とし》は二十八で、※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《ろう》たげなとでも申しましょうか、たいへんに位のあるお顔つきで、おとりなしは極《ご》くお優しいのですが、なんとなく寄りつきにくいようなところもあって、打ちとけた話もたんとはございませんでした」
路考は、茶を一口|啜《すす》って、掌《たなごころ》の上で薄手茶碗の糸底《いとぞこ》を廻しながら、
「……そうして二、三度お逢いした後のある朝、いつも供《とも》に連れておいでになる腰元《こしもと》がまいりまして、何とも言わずに置いて行った螺鈿《らでん》の小箱。開けて見ますと、思い掛けない、つけ根から切りはなした蚕《かいこ》のようなふっくらとした白い小指が入っておりました。……この以前も、このようなものをむくつけに送りつけられたことはないでもございませんでしたが、いたずらな町家娘《まちやむすめ》とわけがちがい、向《むこう》さまは由《よし》あるお公卿さまのお姫さま。そんなご身分の方が、あちきのような未熟な者をこれほどまでにと思いますと、嬉しさかたじけなさが身に浸《し》みまして、あちきもとり逆上《のぼせ》たようになり、使いや文《ふみ》で、せっせとお誘いいたしたのですが、どうしたものか、お出《い》ではおろか、お返しの文もございませぬ。その頃、殺手姫さまは、金杉稲荷《かなすぎいなり》のある、小石川《こいしかわ》の玄性寺《げんじょうじ》わきのお屋敷に住んでいられましたが、今もうし上げたようなわけなので、あちきもたまりかね、玄性寺の塀越しになりと、ひと目お姿を見たく思い、その時差上げたのが先刻《さきほど》の手紙。……参詣《さんけい》旁々《かたがた》遠眼にお姿を拝見したいから、六ツ半ごろ、眼に立つところにお立ち出でくださるようにと書いて差上げました。……殺手姫さまのお屋敷には、玄性寺寄りに高い高殿《たかどの》がありますので、あちきのつもりでは、そこへお立ちになった姿を拝見しようと思ったのでございました」
聞けば聞くほど意外な話で、源内先生は伝兵衛と眼で頷き合ったのち、
「いや、よくわかりました。それで、その後、殺手姫さまといわれる方は……」
「……その後《のち》、ようやくお眼にかかれるようになり、その時のお話では、わちきのところへしげしげお渡りになったことがお父上さまの耳に入り、手ひどい窮命《きゅうめい》にあって、どうしても出るわけにはゆかなかったということ。その後、お父上さまが京都にお帰りになったので、また元通りにお逢い出来るようになりましたが、人目の関があって、芝居茶屋の水茶屋のというわけにはまいらなくなり、あちきの方から、日と処をきめて文を差上げ、日暮里《にっぽり》の諏訪神社《すわじんじゃ》の境内や、太田《おおた》が原の真菰《まこも》の池のそばで、はかない逢瀬《おうせ》を続けていたのでございます」
路考は、怯えるように、急に額のあたりを白くして俯向き加減に、
「……どこと、はっきり申上げるわけにはまいりませんが、打ちとけたお話をしている時にも、何かゾッとするような恐ろしい気持に襲われることがあり、以前にも申上げましたが、こちらの胸にじかに迫るような不気味なところもあって、どのようにそれを思うまいとしても、どうすることも出来ません。……いかにもお美しく、たおやかなお方ですがあまりにもお妬《ねた》みの心が強く、心変りがするようなことがあったら、お前も相手
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