」
「港に沢山《たくさん》船がもやっているところを見ると、どうやらへーぐ[#「へーぐ」に傍点]というところらしいな」
「こいつア驚いた。……するてえと、なんですか、向うもやっぱし正月なんで」
「日柄には変りない。ただし、向うはいま日の暮れ方だ」
「おやおや、妙だねえ。どんなお天気工合です」
「大分《ヒール》に雪《スネエウ》が降っているな」
「蒸籠《せいろ》に脛《すね》が出たたア、何のことですか」
「いや、たんと雪が降っておるというのだ。……おお、美人が一人浜を歩いている」
「えッ、美人が出て来ましたか。いったい、どんなようすをしています」
「高髷《たかまげ》を結《ゆ》って、岡持《おかもち》を下げている」
「和蘭陀にも岡持なんかあるんですか」
「それもそうだな。……これは、チト怪しくなって来た。おやおや、高下駄を穿《は》いて駈け出して行く。おい、伝兵衛、和蘭陀だと思ったら、どうやら、これは洲崎《すさき》あたりの景色らしいな」
「じょ、じょ、冗談じゃない、ひとが真面目になって聞いているのに。……そんな悠長な話をしている場合じゃないんです。……大きな声では言えませんが、実は、今日の朝方、またあったんです」
「またあったというと、……例の口か」
「ええ、そうなんです」
「すると、これで三人目か。チト油断のならぬことになって来たな」
「他人《ひと》のことみたいに言っちゃいけません。あなただって関係《かかりあ》いのあることなんです。ともかく、降りて来てください」
「なんだか知らないが、そういうわけならば、今そこへ行く」
飄逸洒脱《ひょういつしゃだつ》の鳩渓先生、抜け上った額に春の陽を受けながら、相輪に結びつけたかかり綱伝い、後退《うしろさが》りにそろそろと降りて来られる。
また一人の娘が
暮から元日にかけて、しきりに流星があった。
元日が最もはげしく、暮れたばかりの夜空に、さながら幾千百の銀蛇《ぎんだ》が尾をひくように絢爛と流星《りゅうせい》が乱れ散り、約四|半時《はんどき》の間、光芒《こうぼう》相《あい》映《えい》じてすさまじいほどの光景だった。
また、前の年の秋頃から、時々、浅間山が噴火し、江戸の市中に薄《うっ》すらと灰を降らせるようなこともあったので、旁々《かたがた》、何か天変の起る前兆《まえぶれ》でもあろうかと、恟々《きょうきょう》たる
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