か。こりゃ歩いてたんじゃ間に合わない。駕籠《かご》だ、駕籠だ」
 多町《たちょう》の辻から駕籠に乗り、六阿弥陀《ろくあみだ》の通りを北へ一町、杉の生垣を廻した萩寺の前へ出た。
 地境《じざかい》の端から草地になり、その向うに、おどろおどろしいばかりに壊《つい》え崩れた土塀を廻した古屋敷。
 塀の中から立ち上った大きな欅の樹に、二つ三つ赤い実をつけた烏瓜《からすうり》が繞《から》み上って、風に吹かれて揺れている。
 駕籠は萩寺の前で返し、草地を歩いて門の前。
 門というのは形ばかり。土壊《つちくい》で土地が沈み、太い門柱が門扉《とびら》をつけたままごろんと寝転《ねころが》っている。小瓦の上には、苔《こけ》が蒼々《あおあお》。夏は飛蝗《ばった》や蜻蛉《とんぼ》の棲家《すみか》になろう、その苔の上に落葉が落ち積んで、どす黒く腐っている。
 さて、門の前まで来は来たものの、あまり凄じいようすで、門扉《とびら》を押す気さえしない。
 源内先生も、すこしゾクッとした顔で、恐るおそる喰い合せの悪い門扉の隙間から、内部《なか》を覗いていたが、とつぜん、
「おッ!」
 と、つン抜けるような叫びを上げた。
「伝兵衛、あれを見ろ」
 伝兵衛が覗いてみると、葎《むぐら》や真菰《まこも》などが、わらわらに枯れ残った、荒れはてた広い庭の真中に、路考髷を結い、路考茶の着物に路考結び。前髪に源内櫛を挿した等身大の案山子《かかし》が、生きた人間のようにすんなりと立っている。
 庭の奥に、社殿造の、閉め込んだ構えの朽ち腐れた建物がある。屋根の棟に堅魚木《かつおぎ》などのせた、屋敷とも社《やしろ》ともつかぬ家の奥から、銀の鈴でも振るような微妙な音がしたかと思うと、櫺子《れんじ》を押上げて現れて来た、年のころ四十ばかりの病み窶《やつ》れた女。
 どこもここも削ぎ取ったようになって、この身体に血が通《かよ》っているのか、蝋石色《ろうせきいろ》に冴《さ》え返り、手足は糸のように痩せているのに、眼ばかりは火がついたように逞ましく光っている。引き結んだ唇は朱の刺青をしたかと思われるほど赤く生々しい。これはもう人間の面相ではない、鬼界《きかい》から覗き出している畜類の顔。
 ゾッとするような嫌味な青竹色の着物の袖を胸の前で引き合せ、宙乗りするような異様な足どりで廻廊の欄干のところまで出て来て、欅の梢を見上げながら、
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