方の壁に寄せて物々しいまでに唐書《とうしょ》を積上げてある。書箱の傍《かたわら》に紫檀の書卓と椅子があって、その下に見事な豹の皮が敷いてある。
机の上には銀の燭台が造付けになっていて三分の一ばかり燃え尽した支那蝋燭が差込まれている。
部屋の中には奉行始め出島乙名、甲必丹《カピタン》オルフェルト・エリアスと館員一同、与力と同心が五人ずつ、吉雄幸左衛門、西善三郎、案内を出した人は一人も洩れなく先着していて、何事が始まるのかといった顔付で思い思いのところへ控えている。
源内先生は、藤十郎と福介を下座の席へ置き、一同の前に進んで一礼してから、
「今夕《こんせき》、ここへお集まり願ったのは、他のことでもありません。既にお聴き及びのことでございましょうが、同じ七月の十五日に、江戸、大阪、長崎とこの三つの場所でそれぞれ三人の人が殺され、その三人はじぶんの加害者が陳東海だと申立ております。諸兄のご思惟《しい》にありますように、人間として江戸と大阪と長崎で同日同刻にそれぞれ三人の人間を殺すなどということが出来得べき筈のものではない。これには何か必ず手段がなくてはならぬのであります。思うに、陳東海は何のためにこのようなことを企てたかと申しますと、恐らくこういうことではなかったかと思うのであります。つまり、絶対に不可能と思われる一連の殺人を行い、相相殺《あいそうさい》せしめて、証拠が不充分の故を以て己の無罪を飽迄も主張しようとする意図に出たものでありましょう。砕《くだ》いて申しますと、仮に江戸の殺人を認めたとすれば、大阪と長崎の殺人は陳東海の所為ではないということになる。また仮に、長崎の殺人は認めたとすると、江戸と大阪の殺人に対しては陳東海は無罪であります。この三つの事件を相殺させると、結局、陳東海はこの事件の下手人としての確実さが失われるわけで、証拠不充分の故を以て陳東海を釈放するほか道はないのであります。実にどうも綿密なことを考え出したもので、然らば陳東海なる者は極めて警抜《けいばつ》な才を持った人間だという他はありません。……では、どんな方法で陳東海がかような奇ッ怪超自然の殺人を行ッたのかと申しますと、からくりを露《あば》いて見れば、実にもう子供騙《こどもだまし》同然の仕掛。わたくしが冗々《くだくだ》と申しますより、実地についてお眼にかけた方が早道と思いますから、それをごらんくだすって、適当なご判断をお下しねがいましょう」
そう言って、携《たずさ》えて来た支那蝋燭を入念に物差で測り、適当な長さに切縮めると、それを机の上に造作《つくりつ》けた燭台の上に立て、まわりの灯火《あかり》を悉《ことごと》く吹消してから、支那蝋燭にゆっくりと火を点した。
一同、固唾《かたず》を呑むうちに、忽然と一方の壁の面に現出してきた人の姿!
朱房のついた匕首を振上げ、今にも襲いかからんとするように凄まじい形相でこちらを睨んでいる陳東海の姿だった。
そのうちに微々《とろとろ》と蝋燭が燃え縮まり、掻消すように壁の姿はなくなって、また暗黒の部屋に返った。
源内先生は、蝋燭を吹消して以前のように灯火を点け、
「ご説明申上げるまでもなく、あれなる壁の面にレンズが一つ嵌込《はめこ》まれてありますが、蝋燭の火があのレンズの中心を通過する高さにまで燃え縮まってきますと、蝋燭の火はレンズを透してその後にある鏡に焦点を結び、その光はそれと相対の位置に据付けてある幻燈《フロ》の種板《たねいた》とレンズを透して反対側の壁に像を結ぶという他愛のない仕掛なのであります。蝋燭の火がレンズの中心を通りまする時間はほんの六、七秒の間のことで、それより蝋燭が燃え縮みますと絶対に壁の上には像は結びません。この仕掛と蝋燭の火の関係がわからなければ、永久にこの秘密を看破ることは出来なかったのであります。しかし、幻燈の像は人間を殺害することは出来ませんから、利七とお種に直接の兇刃《きょうじん》を加えた者は、予《あらかじ》め暗闇に潜んで待っていた二人の共犯者であって、壁の像が消えるのを待構え、それが恰《あたか》も陳東海が飛掛かったように思わせながら背後から突刺したものに相違ありません。申すまでもなく大阪庭窪、蘇州庵の場合も、この長崎の場合と同じ仕掛がしてあったと申上げるのは蛇足に過ぎる憾《うら》みがありましょう」
源内先生は、そう言うと、満面に得意の微笑を泛べながら一座の人々に軽く一揖《いちゆう》した。
底本:「日本探偵小説全集8 久生十蘭集」創元推理文庫、東京創元社
1986(昭和61)年10月31日第1刷発行
1989(平成元)年3月31日4版
入力:川山隆
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年12月12日作成
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