平賀源内捕物帳
長崎ものがたり
久生十蘭
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)匕首《あいくち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)長々|寄泊《きはく》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「木+霸」、第3水準1−86−28]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)まご/\する
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朱房銀※[#「木+霸」、第3水準1−86−28]《しゅぶさぎんづか》の匕首《あいくち》
源内先生は旅姿である。
旅支度と言っても、しゃらくな先生のことだから道中合羽に三度笠などという物々しいことにはならない。薄茶紬《うすちゃつむぎ》の道行《みちゆき》に短い道中差、絹の股引に結付草履《ゆいつけぞうり》という、まるで摘草にでも行くような手軽ないでたち。茶筅《ちゃせん》の先を妙にへし折って、儒者《じゅしゃ》ともつかず俳諧師《はいかいし》ともつかぬ奇妙な髪。知らぬ人が見たら医者が失敗《しくじ》って夜逃《よにげ》をする途中だと思うかも知れない。
源内先生は高端折《たかはしょ》り。紺の絹パッチをニュッと二本突ン出し、笠は着ず、手拭を米屋《こめや》かぶりにして、余り利口には見えないトホンとした顔で四辺《あたり》の景色を眺めながらノソノソと歩いて行かれる。雨でも降ったらどうするつもりだろう、それが心配である。
尤も、先生一人ではない。僕《しもべ》を伴に連れている。
先生は世話好きとでもいうのか、親に棄てられた寄辺《よるべ》のない子供や、身寄のない気の毒な老人を、眼につき次第誰彼かまわず世話をする。福介《ふくすけ》もその一人で、今から五年前、出羽の秋田から江戸へ出て来て、倚《かか》るつもりの忰や娘に先立たれ、知らぬ他国で如何《どう》しようもなくなって、下谷《したや》の御門前《ごもんぜん》で行倒れになりかけているのを気の毒に思って連れ帰って下僕《しもべ》にした。この世の実直を一人占めしたような老僕の福介。こちらは足拵《あしごしらえ》もまめまめしく、大きな荷を振分にして、如何にも晴れがましそうに、また愉しげにイソイソと先生の後《うしろ》に引添って来る。
竹藪続きの山科《やましな》街道。
竹藪の向うの農家からときどき長閑《のどか》な※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]《にわとり》の声が聞える。
江戸を七月二十日に発ち、先年江戸へ上るとき世話になった駿河本町《するがほんまち》二丁目、旅籠屋《はたごや》菱屋与右衛門《ひしやよえもん》方へ先度《せんど》の礼かたがた三日程泊り、八月二十四日に京都へ着いて山科《やましな》の三井八郎右衛門《みついはちろうえもん》の四季庵《しきあん》でまた三日ばかり、引止められるのを振切ってこれから大阪へ下ろうという都合《つもり》。
大阪には、先年長逗留の間、先生の創見にかかわる太白砂糖《たいはくざとう》の製法を伝授して大いに徳とされ、富裕《ふゆう》・物持《ものもち》の商人に数々の昵懇がある。
先生が江戸へ発《た》とうとする時、生涯衣食のご心配はかけませんからどうぞ大阪にお止まりを、と言って皆々袖を引止めた程だったから、今度また先生が大阪へ下ったと知ったら、誰も彼もと押寄せて下にも置かぬ款待《もてなし》をするにちがいない。先生にしたってそれは嬉しくない筈はないので、本来ならばもう少し浮々《うきうき》してもよかるべきところを、見受けるところ先生の面《おもて》には一抹の憂色があって、トホンとした中にも何処《どこ》か屈託あり気な様子が見える。
源内先生の憂悶《ゆうもん》の種はこんなことだった。
宝暦《ほうれき》二年、二十一歳で長崎に勉強をしに行った時、長々|寄泊《きはく》して親よりましな親身な世話を受けた本籠町《もとかごまち》海産問屋、長崎屋藤十郎《ながさきやとうじゅうろう》の妹娘の鳥《とり》というのが、江戸日本橋|小網町《こあみちょう》の廻船問屋|港屋太蔵《みなとやたぞう》方へ嫁に来ていて、夫婦仲もたいへんに睦《むつ》ましかったのだが、このお盆の十五日、ひわという下女を連れて永代へ川施餓鬼《かわせがき》に行った帰途《かえりみち》、長崎で世話になった唐人《あちゃ》さんが、今、江戸へ上って来ているから、一寸、挨拶をして来ると言って、新堀町《しんぼりちょう》で女中を返し、自分ひとりで神田|和泉町《いずみちょう》の陳東海《ちんとうかい》の仮宅《かりたく》へ訪ねて行ったところ、どういういきさつがあったのか、陳に殺されてしまった。
六ツ半といっても、夏のことだからまだ明るい。
陳東海の仮宅の垣根の隣が伊草乙平《いくさおつへい》という謡《うたい》の先生の家で、向うにも二十坪ばかりの庭があり、向うの梅の枝が垣根を越してこちらへ張り出し、隣の渋柿がこちらの庭に落ちるといったぐあい。垣根とは名ばかりで一つ庭のようなもの。
乙平は気骨の折れる士勤《さむらいづとめ》をして肩を凝らすより、いっそ謡でも唱って気楽に、と自分から進んで浪人したくらいの芯からの江戸人。箱根を越えたことがないのが自慢なくらいなのだから、仮宅にもせよ垣根の隣へ唐人が越して来たのを気味悪がって、生来の潔癖から垣根の方へも寄らないようにしていた。
丁度六ツ半頃、庭に盥《たらい》を出させて萩《はぎ》の間《あいだ》で行水《ぎょうずい》を使っていると、とつぜん隣の家で、きゃッという魂消《たまぎ》えるような女の叫び声が聞え、続いて、
「あ痛っッ、……陳さん、あなた、何で、あたしを、こんな目に……。あれえッ、どなたか、どうぞ……」
巴《ともえ》になって争っているような激しい足音がして、
「……どなたかッ、……どなたかッ……」
と、言っているうちに、女の声は段々かすかになる。
乙平は捨てて置けなくなったので、手早く身体を拭いて帷子《かたびら》を引掛け、刀を掴み取る暇もなく素跣足《すはだし》のまま庭へ飛び下り、黒部の柴折戸《しおりど》を蹴放《けはな》すようにして隣の庭へ飛び込んで行った。
沓脱石《くつぬぎいし》から一足飛びに座敷の中へ入って見ると、眼も当てられぬ光景になっていた。
落してまだ間があるまい。眉の跡が若葉の匂うよう。薩摩上布《さつまじょうふ》に秋草の刺縫《ぬい》のある紫紺《しこん》の絽《ろ》の帯を町家《まちや》風にきちんと結んだ、二十二、三の下町の若御寮《わかごりょう》。
余り見馴れない、朱房のついた銀※[#「木+霸」、第3水準1−86−28]の匕首で左の肩胛骨《かいがらぼね》の下のあたりをの[#「の」に傍点]深く突刺されたまま、左脇を下にして鬢を畳に擦りつけ、
「あッ……、たれか、助けて、ちょうだい……たれか、はやく。……死にたくないから。……あなた、あなた……」
それでも膝を乱すまいとして両膝を縮め無心に裾をかばっている。哀れなので。
乙平は一目見て、これは、もういけないと思った。気儘から謡の先生などをして暮しているが一廉《ひとかど》の心得のある武士だから、生《なま》じい生命を庇《かば》おうと狼狽《うろた》えまわるより、今のうちに聞くだけのことを聞いて置く方がいいと思ったので、左腕を背へ廻して女の上身を引立て、膝でそっと支えてやって、
「お内儀《ないぎ》、お内儀、何をこれしきの傷。死にはしないから、気を確かに持ちなさい」
「は、はい……」
薄ッすらと眼を開けたが、すぐまた、がッくりとなるのを引起すようにして、乙平、
「弱ッちまッちゃいけない。それじゃ亭主に逢えんぞ。確《し》ッかりしなさい」
亭主という声が届いたのか、起上ろうと両手を泳がせながら、
「だい、じょうぶ……」
「おう、元気が出たな、物が言えるか」
うなずいて、
「い、言えます」
「殺したのは誰だ」
「……陳東海……」
「この家の主人だな」
また、こッくりと頷いて、
「……襖《ふすま》の向うから、あたしが挨拶しますとね、襖を明けてお入りッて言いますから、何の気もなく、襖を明けますと、どうしたというのでしょう。陳さんが朱房のついた匕首を振上げて、喰いつくような顔付で襖のすぐ傍に仁王立ちになッているンです。……あたし、あッと驚いて、逃げ出そうとすると、追かけて来て、いきなり後《うしろ》からこんな酷《ひど》いことを……」
「何か恨みを受ける覚えでもあるのか」
もう精が尽き果てたのか、見る見るうちに顔が真ッ白になって、小網町、廻船問屋、港屋太蔵の妻、鳥と答えるのがようよう。後は何を訊いても頷くばかりだった。そのうちに手足に痙攣《ふるい》が来て、吃逆《しゃっくり》をするような真似をひとつすると、それで縡《ことぎ》れてしまった。
乙平が番屋へ訴え出、番屋から北番所《きた》へ。
時を移さず、与力|小泉忠蔵《こいずみちゅうぞう》以下、控同心|神田権太夫《かんだごんだゆう》。それからお馴染のお手付御用聞、土州屋伝兵衛、引連れて出役。
手を尽して調べて見たが、格別乙平の訴えより変ったところもない。陳東海はお鳥を突刺して置いて自分は勝手口から飛出して行ったものらしい。その形跡ははッきりと残っている。もう一つは手口が少しちがう。日本人なら突ッ通すか刳《えぐ》るか、この二つのうちだが、傷口を見ると、遠くからでも匕首を打込んだような、しゃくッたようなようすになっている。
殺された当人がはッきりと陳東海だと言ったのだから、これ程確かなことはないわけで、その日の夜遅く、同じく唐通詞《とうつうじ》で八官町《はっかんちょう》に住んでいる林明斎《りんめいさい》の宅へ立廻ったところを難なく捕縛された。
陳東海は、宝暦の初めごろから唐船の財副《ざいふく》になって交易のため幾度となく長崎に来、宝暦十一年から明和二年迄の四年の間、長崎の唐人屋敷に住んでいた。その年の春、急に故郷の浙江県《せっこうけん》へ帰り、二年置いた明和五年の春、また長崎へやって来たが、たいへんに日本語が巧《たくみ》なので長崎奉行から唐通詞を依頼され、古川町《ふるかわちょう》の闕所屋敷《けっしょやしき》を貰ってそこに住んでいた。
陳東海は浙江県|寧波《ニンパオ》の大金満家の次男で、学士の試験に落第してから志を変えて交易に身を入れるようになった。尤も、それとても半分道楽のようなもので、日本の景物に親しむのが主な目的だった。たいへん日本の風儀を好んで、寧波《ニンパオ》にある自分の家は日本風の二階造りにして畳を敷き、日本の膳椀食具《ぜんわんしょくぐ》を使い、烹調料理《ほうちょうりょうり》の品味もすべて日本の儘にやっていた。
家柄のある家に生れたので眉目秀麗《びもくしゅうれい》で、如何《いか》にも貴公子然としており、立居振舞も鷹揚で、また品がよく奥床《おくゆか》しかったから、己惚面《うぬぼれづら》をした美男の評判のある長崎の小小姓《こごしょう》などは足元にも寄れぬくらいだった。
何と言っても、通詞という官位を持っているのだから番屋調べをするというわけには行かない。伝馬町の揚屋《あがりや》に入れて手酷《てきび》しく調べ詰めたが、どうしても自分が殺したとは言わない。
丁度その時刻には、自分は市村座《いちむらざ》で芝居を観ていたという。芝居茶屋へ訊い糺《ただ》して見ると、来た時刻も帰った時刻もちゃんとウマが合っている。
茶屋へ入って桟敷《さじき》へ通ったのが正午《ひる》過ぎの八ツで、茶屋を出たのが終演《はね》る少し前の五ツ半。如何にも眼立つ服装《なり》をしているのだし、多分に祝儀をはずんだので、茶屋でははッきりと覚えていた。
しかし、桟敷で身装《みなり》を変えて小屋抜けをするぐらいは造作もなく出来ることなのだから、これだけでは嫌疑が晴れようわけはなく、揚屋《あがりや》にそのまま留められたが、陳東海は、誰か自分によく似た男が自分に成澄《なりす》ましてこんなことをしたのに違いないと言張って、どうしても承服しないのだった。
源内先生
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