ずるほかはない。
理窟から言うと、そんな馬鹿なことが、と頭からけなしつけることも出来るが、そうとばかり簡単に片附けられぬ節もある。えらそうには言って見るが宇宙の輪廻の中では人間の智慧などはどの道|多寡《たか》の知れたもので、世の中には理外の理というものがあって、一見、どうしても不可能としか見えぬことも、方法を以てすれば実に造作なくやって退《の》けられるのかも知れぬ。
あの日以来、七日の間、先生は暇さえあれば津国屋の離座敷《はなれざしき》で腕組をして考えていたが、今度ばかりはどうしても事件の核心を衝《つ》くことが出来ない。こんなところで何時までも首を捻っていたッてどうにもならないことなので、長崎迄の船の中でとッくり考えようと肚を決め、未解決のまま利七の骨箱を抱いて九月四日に津港《つみなと》から長崎行の便船に乗込んだ。
冬とちがって風待《かざまち》や凪待《なぎまち》もなく、二百里の海上を十一日で乗切り、九月十七日の朝、長崎に到着した。
船は神崎の端をかわして長崎の港へ入る。
長崎の山々は深緑を畳み、その間に唐風《からふう》の堂寺台閣《どうじだいかく》がチラホラと隠見《いんけん》する。右手の丘山《おかやま》の斜面《なぞえ》には聖福寺《せいふくじ》や崇徳寺《すうとくじ》の唐瓦。中でも崇福寺《すうふくじ》の丹朱の一峰門が山々の濃緑から抽《ぬき》ん出て、さながら福建《ふくけん》、浙江《せっこう》の港でも見るよう。
出島《でじま》に近い船繋場《ふなつきば》には、和船に混って黒塗三本|檣《マスト》の阿蘭陀《オランダ》船や、艫《とも》の上った寧波《ニンパオ》船が幾艘となく碇泊し、赤白青の阿蘭陀《オランダ》の国旗や黄龍旗《こうりゅうき》が飜々《ひらひら》と微風に靡《なび》いている。
山々のたたずまいも港の繁昌も、十七年前と少しも変らない。何もかもみな思い出の種で、源内先生は、深い感慨を催しながら舷側に倚《よ》って街や海岸を眺めていたが、そのうちに頸《くび》に下げた骨箱に向って、
「さあ、利七さん、長崎へ帰りました。ここはあなたの生れ故郷。さぞ懐かしいこったろう。いや、口惜しく思いなさるだろう。生きて帰れる身が唐人づれの手にかかってこんな姿になってしまったんじゃ、あんたも口惜しかろう。間もなくお種さんに逢わせてあげますが、こういうあなたの姿をお種さんが見たらどのように歎くか
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