じらしくて、この話ばかりはまだ誰にもしたことはなかったんですが、ちょうど二十日ほど前、町内に寄合があってその帰り途、佐渡屋の前を通りかかって、何気なくひょいと門口を見ますと、戸前に大きな犬のようなものが寝ている。……何だろうと思って、そっと近寄って見ると、鳴海絞《なるみしぼ》りの黒っぽい浴衣を着た里春が、片袖を顔へひき当てるようにして檐下《のきした》に寝ているんです。……酔ってるのかと思って、肩へ手をかけて揺って見ると、酔っているんじゃない、泣いているんです。……こんな地面へ寝転がっていると夜露《よつゆ》にあたるぜ、と言いますと、ああ、加賀屋の旦那ですか、手放しでお聞きにくいでしょうけど、あちきは毎晩ここで寝ているんです。……一尺でも定太郎に近いところで寝たいと思いましてねえ、どうぞ笑ってくださいまし……」
「そりゃ、気の毒なもんだ。……それで、定太郎のほうは、どうなんです」
 加賀屋は、苦っぽろく笑って、
「土州屋さん、これはあたしが言うんじゃありません。いくら何でも、頭を禿げらかしたあたしがこんなことを言うわけがない。これは、世間の評判です、どうか、そのつもりでお聴きください。……
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