大輪の牡丹《ぼたん》の花ほどに濡れ、そこから血が赤く糸をひく。
「血だ、血だ」
「象が血を流している」
ワッ、と総立ちになる。これで、騒ぎが大きくなった。
龕燈《がんどう》の光で見た景
木挺役《きちょうやく》が飛んでくる。曳物の先達《せんだつ》が飛んでくる。鳶がくる。麻上下《あさがみしも》がくる。
何しろ、お曲輪《くるわ》も近い。年一度の天下祭が不浄の血で穢《けが》れたとあっては、まことに以て恐れ多い。なかんずく、年番御役一統の恐悚《きょうしょう》ぶりときたらなんと譬えようもない。
象は、あわてて麹町一丁目の詰番所|傍《わき》の空地《あきち》へ引込んで葭簀《よしず》で囲ってしまい、ご通路の白砂を敷きかえるやら、禊祓《みそぎはら》いをするやら、てんやわんや。
さいわい片側だけの見物で、象の血を見た人数《にんず》もあまりたんとではない。さまざまに世話役が骨を折り、舁役《かきやく》が怪我をしたのだと誤魔化《ごまか》してようやくおさまりをつけてホッと胸を撫でおろす。あれやこれやで小半刻《こはんとき》。行列がようやくまた動き出す。
渡御《とぎょ》、お練《ねり》のほうは、これでどうやら事なくすんだが、これから先がたいへん。
呉服橋北町奉行所《ごふくばしきたまちぶぎょうしょ》、曲淵甲斐守《まがりぶちかいのかみ》のお手先、土州屋伝兵衛《としゅうやでんべえ》。神田|鍋町《なべちょう》の氏子総代で麻上下に花笠。旦那のように胸を張って二十七番の山車に引き添っていた。
屋台車といっしょにお曲輪内へはいったが、そのうちに、麹町の象の曳物の胸から血が出たという噂が、誰の口からともなく風のように伝わってきた。
供奉《ぐぶ》のほうは放ったらかし、象を曳込んだという麹町一丁目の詰番所まで横ッ飛びに駆けてきて、ズイと葭簀の中へはいると、一足先に、そこへ来ていたのが、南町奉行所のお手付同心の戸田重右衛門《とだじゅうえもん》。これが、出尻伝兵衛《でっちりでんべえ》の敵役《かたきやく》。
もとは、麹町平河町の御用聞で、先年同心の株を買い、以来、むかしのことを忘れたように権柄《けんぺい》に肩で風を切る役人面。いよう、と言えば、下《さが》るはずの首が、おう、と逆に空へ向くやつ。お前らとは身分がちがうという風に碌《ろく》な挨拶さえ返さない。これでは伝兵衛でなくとも癪《
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