さじき》をかまえ、白幕《しらまく》やら紫幕。毛氈《もうせん》を敷いて金屏風を引きまわし、檐《のき》には祭礼の提灯を掛けつらね、客を大勢招んで酒宴をしながら、夜もすがらさざめいて明けるのを待っている。
何しろ江戸一の大祭なので、当日は往来を止めて猥《みだ》りに通行を許さず、傍小路《わきこうじ》には矢来《やらい》を結い、辻々には、大小名《だいしょうみょう》が長柄《ながえ》や槍を出して厳重に警固する。
十四日は渡初《わたりぞ》めといって、山車、練物はみな山王の社《やしろ》に集まってここで夜を明かし、翌十五日の暁方からそろそろと練り出す。
御幣、太鼓、榊《さかき》を先に立て、元和《げんな》以来の古式に則って大伝馬町の諫鼓鶏の山車が第一番にゆく。行列長さだけで二十丁。山下門から日比谷の壕端《ほりばた》に沿い、桜田門の前から右へ永田町の梨《なし》の木坂《きざか》をくだり、半蔵門から内廓《くるわ》へはいって将軍家の上覧を経、竹橋門《たけばしもん》を出て大手前《おおてまえ》へ。それから、日本橋を通って霊岸島まで練ってゆく。
今年は麹町の年番で、一丁目から十三丁目までの町家が御役《おやく》になってこれが大変なはずみよう。毎年の猿の山車のほかに、年番附祭《ねんばんつけまつり》の例にならい、朝鮮人来朝の練物と、小山のような大きな白象の曳物を出すというので、これが江戸中の大評判。
毎年は出さず、年番に当った年だけ曳出す。
高さは四間、頭から尻尾までの長さが六間半。鼻の長さだけでも九尺余りある。
平河町の大経師《だいきょうじ》、張抜拵物《はりぬきこしらえもの》の名人、美濃清《みのせい》が二年がかりでこしらえたもの。
木枠籠胴《きわくかごどう》に上質の日本紙を幾枚も水で貼り、その上へ膠《にかわ》でへちま[#「へちま」に傍点]をつけて形を整え、それを胡粉《ごふん》仕上げにしたもの。
享保《きょうほう》十三年に渡来した象を細かいところまで見て置いたと見え、芭蕉の葉のような大きな耳から眼尻の皺、鼻の曲り、尾の垂れぐあいまで、さながら生きた象を見るよう。
普賢菩薩の霊象に倣《なら》って額に大きな宝珠《ほうじゅ》がついている。鈴と朱房《しゅぶさ》のさがった胸掛《むなかけ》尻掛《しりかけ》。金銀五色の色糸で雲龍を織出した金襴《きんらん》の大段通《おおだんつう》を背中に掛け、四本の脚の中
前へ
次へ
全21ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング