む》り。片袖で顔を蔽って象のそばから走り出そうとすると、人気《ひとけ》のないはずの松の根方《ねかた》から矢庭《やにわ》に駈け出した一人。
「野郎ッ!」
間をおかずに、今度は葭簀の裏からまた一人。
「美濃清、御用だ」
件《くだん》の男は、げッ、と息をひいて、つんのめるように闇雲《やみくも》に駈け出した。と見るうちに、もやい合った夏草に足を取られて俯伏せにどッと倒れた。
同体になって一人は肩、一人は足。グイッと押えつけておいて、
「じたばたするねえ、ももんがあ奴《め》」
「足掻《あが》きやがるな、経師屋《きょうじや》」
男は、歯軋《はぎし》りをして、
「畜生ッ、桝落《ますおと》しにかけやがったか」
ちえッ、と舌を鳴らすのを引起して顔を見ると、美濃屋清吉。……
肩を押えたのは、北番所《きた》の土州屋伝兵衛。足を掴んだのは、南番所《みなみ》の戸田重右衛門《とだじゅうえもん》だった。
薪割りから水汲みと、越後から来た飯炊男《めしたきおとこ》のように実を運んでも、笹の雪、撓《しな》うと見せて肝腎なところへくるとポンと撥《は》ねかえす。美濃清も愚痴な男ではないのだが、もう抜きも差しもならない恋地獄。祭礼の酒に勢いを借りて最後の手詰めの談判をして見たがどうにもいけない。定太郎のことでいっぱいで、あなたのことなんぞは思って見る暇もないという愛想尽かしだった。
定太郎がいるばっかりにと思いつめたら、もう何を考える余地もない。どんなことがあったって里春を生きたままでは定太郎に渡さねえ。
親父が死ぬときに、そっと囁いた象の後脚のからくり。ちょうどそこへ定太郎が入ることから思いついて巧く仕組んだ象の中の人殺し。
定太郎の縁組が近づくのに、里春に纏いつかれて困っていることは町内で知らないものはない。せっぱ詰って定太郎が里春を殺したと見せかけるつもり。それには象が練っている途中に殺したと見せるのでなければ拙《まず》い。象の腹の内側に桐油を張って漆で留め、二刻ぐらいは血が外へ洩れないようにして置いた。
里春を殺したのは、象の背中から中へ入れたときだった。座蒲団を持ってじぶんも一緒に入ってゆき、隙を見すまして左手で口を蔽い、右で乳の下をグッとひと刺し、象のまわりではチャルメラや鉄鼓をかしましく囃し立てていたので、里春の知死期《ちしご》の叫び声は象の脚元にいた植亀や藤助の耳にも聞
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