つ里春を殺ったのでしょう」
「たぶん、朝鮮人が寄ってけたたましく前囃子《まえばやし》をはじめたころででもあったろうよ。……論より証拠、のっぴきならないところを見せてやる」
と言いながら、象の腹のほうへ寄って行き、檳榔子塗《びんろうぬり》の腰刀を抜いて無造作にガリガリと胡粉を掻き落していたが、そのうちに手を休めて得意満面に伝兵衛のほうへ振りかえり、
「どうだ、伝兵衛。ここへ来て見ろ。象の下ッ腹に、この通り桐油《とうゆ》を五枚|梳張《すきば》りにして、その上を念入に渋《しぶ》でとめてある。象の腹で金魚を飼いやしまいし、こんな手の込んだことをする馬鹿はない。それに、ひと眼見てわかる通り、これは去年|一昨年《おととし》のものじゃない。つい最近にやった仕事。……なア、伝兵衛、こんな仕事が出来るのは、四人のうちで美濃清だけ」
「恐れ入りました」
源内先生、ニヤリと笑って、
「お前が恐れ入ることはないさ。……しかし、これだけじゃ、美濃清の首根ッ子を押えるわけにはゆかない。親父のやったことで私は知りませんと言われたらそれっきり。……敵を謀《はか》るはまず怖れしむるにある。……棒を持った象の番人などはみんな引っ込めてしまって、象が胸から血を滴らしたのは何故だろう何故だろうと、何気ないふうに触れて歩け。かならず美濃清が象を焼きに来る」
夕方からとの曇《ぐも》って星のない夜。
まわりは空地なので、祭礼《まつり》の提燈の灯もここまではとどかない。
蓬々《ぼうぼう》の草原に、降るような虫の声。
濃い暗闇《やみ》のなかに墨絵で描いた松が一本。
その幹へさしかけにした葭簀囲いの間から、闇夜にもしるく象の巨体が物の怪《け》のようにぼんやりと浮きあがっている。
祭礼《まつり》のさざめきもおさまって、もう、かれこれ丑満《うしみつ》。
蛍火《ほたるび》か。……象の脚元で火口《ほぐち》の火のような光がチラと見えたと思うと、どうしたのか、象が脚元からドッとばかりに燃え上った。
乾き切っていたところと見え、前脚にメラ/\とたちあがった火が、舐《な》めずるように胴のほうへ這って行き、瞬《またた》く間に大きな象の身体《からだ》を紅蓮《ぐれん》の焔でおし包んでしまった。
象の脚元に蹲《うずく》まっている一人の男。
井桁格子《いげたごうし》の浴衣に鬱金木綿《うこんもめん》の手拭で頬冠《ほおか
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