世間じゃ、定太郎を馬鹿野郎だと言っています。馬鹿も馬鹿も大たわけ。……なるほど、相手はしがない清元の師匠。織元のお嬢さんとは比べものにはなりますまいが、人間の真情は金じゃ買われない。この世で、何が馬鹿だといって、人情を汲み取れねえ奴ぐらい馬鹿はありません……」
気が差したように、禿上った額をツルリと撫でて、
「こりゃアどうもくだらねえ無駄ッ話を……。尤も、定太郎のせいばかりじゃない。子供のときから親父のいいなり次第。張りのねえ男で、吝《しみ》ったれが盆栽を弄《いじ》るようにすっかり枝を矯《た》められてしまったせいなんでしょうが……」
「それほど嫌っていながら……」
「ええ、それというのは、里春が怖いからなんです。心の中じゃ身顫《みぶる》いの出るほど嫌ってるんだが、あまり素気《そっけ》なくすると許嫁《いいなずけ》のところへ暴れ込まれ、せっかく纏りかけた縁談をぶち毀《こわ》されないものでもないと思って、誘われれば嫌々ながら出かけて行くといったわけあいらしいんです」
火明りに映った顔
源内先生は、ぶつくさ。
内心は、それほど嫌でもなさそうなんだが、何かひと言いわないとおさまらないのだと見える。
年に一度のお祭だというのに、今まで家で何をしていたのか、頭から木屑《きくず》だらけになり、強い薬品で焼焦げになった古帷子《ふるかたびら》を前下りに着て、妙なふうに両手をブランブランさせながら、
「ねえ、伝兵衛さん、実に、わしは迷惑なんだ。何かあるたびに、ちょいと先生、ちょいと先生……。わしはお前さんのお雇いでもなければ追い廻しでもない。ひとがせっかく究理の実験をしているところを騙討《だましう》ちみたいに連れ出して、象の腹の中へ入って見てくれとは何事です。嫌だよ、断わるよ。こんなボテ張りの化物みたいなものの胎内潜りなんか、真ッ平ごめん蒙るよ」
伝兵衛の方は、すっかり心得たもので、決して先生に逆《さから》わない。
「ああ、そうですか。嫌なら嫌でようござんす。お忙しいところをこんなところへ引き出して申訳ありませんでした。……お詫びはいずれゆっくりいたしますが、あっしは気が急《せ》いておりますから、じゃ、これで……」
源内先生、狼狽《うろた》えて、
「まア、そう素気《すげ》ないことを言うな。お前はひと交際《づきあい》がわるくて困る。いったい、この象がど
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