ないようだから、わたくしが代って申しましょう。……あんなのを悪縁とでも言うのでしょうか、里春はもと櫓下《やぐらした》の羽織で、春之助《はるのすけ》といったら土州屋さんもご存じかも知れない。評判の高かったあの松葉屋《まつばや》の春之助のことです。……七つも齢下の定太郎にじぶんの方から首ったけになって二進《にっち》も三進《さっち》もゆかぬようになり、商法の見習で定太郎が大阪へ行けば大阪へ、名古屋へ行けば名古屋といったぐあいに、あっちこっちしてる間じゅうこの五年越し影のようについて廻り、定太郎の年季が終って江戸へ帰って来ると、十三丁目と背中合せの箪笥町で清元の師匠をはじめたんです。……気の毒だといったらいいのか馬鹿だといったらいいのか、わたくしには何とも言えません。……佐渡屋は、四谷、麹町でも名の通った旧弊《きゅうへい》な家風。じぶんの相続人に五年も他人の飯を食わせて商法の修業をさせるほどの親父なんだから、山ッ気のほうは兎も角として、芸者の、師匠のとそういった類をどう間違ったって、家へなぞ入れようはずがない。そりゃア、里春のほうでも百も承知なんだが、矢ッ張り諦めきれないと見える。……あまりいじらしくて、この話ばかりはまだ誰にもしたことはなかったんですが、ちょうど二十日ほど前、町内に寄合があってその帰り途、佐渡屋の前を通りかかって、何気なくひょいと門口を見ますと、戸前に大きな犬のようなものが寝ている。……何だろうと思って、そっと近寄って見ると、鳴海絞《なるみしぼ》りの黒っぽい浴衣を着た里春が、片袖を顔へひき当てるようにして檐下《のきした》に寝ているんです。……酔ってるのかと思って、肩へ手をかけて揺って見ると、酔っているんじゃない、泣いているんです。……こんな地面へ寝転がっていると夜露《よつゆ》にあたるぜ、と言いますと、ああ、加賀屋の旦那ですか、手放しでお聞きにくいでしょうけど、あちきは毎晩ここで寝ているんです。……一尺でも定太郎に近いところで寝たいと思いましてねえ、どうぞ笑ってくださいまし……」
「そりゃ、気の毒なもんだ。……それで、定太郎のほうは、どうなんです」
加賀屋は、苦っぽろく笑って、
「土州屋さん、これはあたしが言うんじゃありません。いくら何でも、頭を禿げらかしたあたしがこんなことを言うわけがない。これは、世間の評判です、どうか、そのつもりでお聴きください。……
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