ることは昔からのきまり。そのご挨拶には及びませんのさ。しかし、どちらが落《おち》を取るかは互いの腕次第」
 重右衛門は、いよいよ以て苦ッ面になり、
「腕たア、撞木《しゅもく》の腕のことか。その腕じゃ、ゴーンと撞《つ》いても碌な音《ね》は出なかろう、何を吐かしやがる。……まア、そんなことはどうでもいいや。おい、御出役、お前《めえ》のくるのを今迄|痺《しび》れを切らして待っていたんだ。顔の揃ったところで、早速、改めにかかろうじゃねえか」
「おだてちゃいけません。あっしは御出役でも何でもねえ、あなたとちがって、ただの御用聞。下調べは如何《いか》にもあたしが手掛けますが、何といってもこんな稀有《けう》な事件。この象を腑分《ふわけ》したら、どんな化物《ばけもの》が飛び出すか知れたもんじゃねえ、御出役のこないうちに軽率《かるはずみ》に象に手をつけるわけにはゆきません」
 象のそばに寄って、じぶんの身体を柵にして、油断なく立構《たちかま》えているところへ、ドヤドヤと北番所《きた》の出役。
 与力|小泉忠蔵《こいずみちゅうぞう》以下、控同心《ひかえどうしん》神田権太夫《かんだごんだゆう》、伝兵衛の下ツ引[#「下ツ引」はママ]、目ッぱの吉五郎、一名目ッ吉、御用医者の田沢菘庵《たざわじょうあん》、ほかに、追廻しが六人。物々しい出役。
 余談だが、神田権太夫というのは、後年、例の谷中延命院《やなかえんめいいん》の蓮花往生《れんげおうじょう》。尻の下へ鏡を敷いて蓮の花の中へはいり、下から槍で突かせて大見得を切ったあの名同心。目ッぱの吉五郎のほうは、享和《きょうわ》三年、同じく延命院の伏魔殿を突きとめ、悪僧|日潤《にちじゅん》を捕《と》って押えたお手先。これで、北番所《きた》の名題《なだい》どころが全部顔が揃ったわけ。
 神田権太夫は、葭簀《よしず》のそばに腕組みをして突っ立っている重右衛門《じゅうえもん》をジロリと尻目にかけ、ツカツカと象の胸先のほうに寄って行って、血の滲《にじ》み出している辺《あたり》をツクヅクと眺めていたが、そばに引添っていた菘庵のほうへ振りかえり、
「先生、嗅いただけでははっきりしたことは言えませんが、これは、人間の血じゃないでしょうか。犬猫の血なら、もうすこし毛臭《けくせ》えはず」
 菘庵は、指先で血を取って、指頭《しとう》で捻って小首をかしげていたが、急にひき緊《
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