湖水の底を探すより、キャンプ村のバンガローでも探すほうが早道だろうということよ」
 石倉が軋るような声でいった。
「大池さんはバンガローにはいません。居たら幽霊だ……バカなことを言っていないで、船に乗ってください」
「それで、どこを探そうというの?」
「昨日も申しましたが、最深部の吸込孔を」
「この湖水に、吸込孔なんか、あるんでしょうか」
「湖水を知り尽しているようなことをいうけど、もし、吸込孔があったらどうします」
「あるなら、見物したいわ……あたしにとっても、興味のあることなのよ」
「お見せしましょう」
 アクア・ラングを積んだ平底船が船着場に着いていた。
 もう夏の陽射しで、シャボンの泡のような白い雲の形が波皺もたてぬ湖面に映っている。警察の連中の乗ったボートや田舟が、岸に近い浅いところを、錨繩を曳きながらゆるゆると動いていた。十分ほど後、平底船は浮標に赤旗をつけた二つの標識の間でとまった。
「ここです」
 隆は挑みかかるような調子でいうと、空気ボンべのバルブを調節して、足にゴムの鰭をつけた。そのあたりは、水の色が青々として、いかにも深そうな見かけをしているが、それは側壁に繁茂した水藻の色なので、こんな底の浅い断層湖に吸込孔などあるわけはなかった。
「それがアクア・ラングというものなの? 大袈裟な仕掛けをするのはやめなさい。こんな浅い湖なら、鼻をつまんだまま潜ってみせるわ……ちょっと行って、見物してくるわ」
 水に入るのは、何年ぶりかだった。水の楽しさが肌に感じられる。久美子は着ているものをみな脱ぎ捨て、イルカのように湖水に飛びこんだ。上からくる水明りをたよりに、藻の間をすかして見る。十メートルほど下に、側壁のゆるやかな斜面が見える。その先は堆積物に蔽われた湖底平原だった。
 上のほうから黒い影が舞い降りて来た。アクア・ラングをつけた隆だった。
「やるつもりだな」
 こうなるような予感があった。
 こんな男とやりあう気はない。久美子は水をあおりながら横に逃げた。相当、ひき離したと思っていたのに、隆はすぐ後へ来ている。ゴムの鰭をつけているせいか、意外に早いのだ。反転して上に逃げる。間もなく水面へ出ようというとき、石倉の身体がまともに落ちかかってきた。
「ああ、やられる」
 隆が右足にしがみつく。石倉の腕が咽喉輪を攻める……胃に水が流れこみ、肺の中が水でいっぱいになる。久美子は空しい抵抗をつづけながら、だんだん深く沈む。水明りが薄れ、眼の前が真っ暗になった。
 久美子は霞みかける意識の中で敏感すぎたせいで殺されるのだと、はっきりと覚《さと》った。

 三時近くになって、本庁の加藤主任のパッカードがロッジの前庭に走りこんできた。そのうしろから県警の連絡員が乗ったジープがついてきた。
 加藤組の私服たちはジリジリしながら主任の来るのを待っていたらしい。ガレージの前で同僚と立話をしていた木村という部長刑事は主任の車を見るなり、あたふたとドアを開けに行った。
「部屋長《へやちょう》さん、お待ちしていました。どこにいらしたんです」
「県警本部へ連絡に行っていた」
 加藤主任はすらりと車からおりると、ガレージの前にいる年配の私服に声をかけた。
「畑中君、ちょっと」
 畑中と呼ばれた私服は、はっというと、二人のそばへ飛んできた。
「打合せをしておきたいことがあるんだ……湖水のそばで一服しようや」
 林の中にうねうねとつづく、茶庭の露地のような細い道をしばらく行くと、だしぬけに林が終り、眼の前に湖の全景がひらけた。
 朽ちかけた貸バンガローが落々と立っているほか、人影らしいものもなかった対岸の草地に、大白鳥の大群でも舞いおりたようにいちめんに三角テントが張られ、ボーイ・スカウトの制服を着たのや、ショート・パンツひとつになった少年が元気な声で笑ったり叫んだりしながら、船着場に沿った細長い渚を走りまわっていた。
 葉桜になった桜並木のバス道路に、大型の貸切バスが十台ばかりパークしていて、車をまわす空地もないのに、朱と水色で塗りわけた観光バスがジュラルミンの車体を光らせながら、とめどもなくつぎつぎに走りこんでくる。観光バスのラジオの軽音楽と、ひっきりなしに呼びかけているキャンプの拡声器のアナウンスが重なりあい、なんともつかぬ騒音になってごったかえしていた。
 捜査一課の主任は煙草に火をつけると、陽の光にきらめく湖水を眼を細めてながめていたが、舌打ちすると、
「厄介なことになったよ」
 と忌々しそうにつぶやいた。
 畑中が詫びるようにいった。
「土《ど》、日《にち》は、どうもやむを得ないので」
「土、日は、言われなくともわかっているさ。だいたい、どれくらい入っているんだ」
「横浜の聖ヨセフ学院の百五十名、ジャンボリー連盟の二百名……いまのところ四百名たらずです……死体捜査の邪魔になるし、こっちの岸へやってこられると困るから、絶対にボートを貸さないように管理人に言っておきました」
「そうまですることはない。おれの言っているのはべつなことだ……それで、女はどうなった?」
 畑中にかわって木村がこたえた。
「今日一日、安静にしておけば回復するだろうといっていました」
 主任は火のついた煙草を指ではじき飛ばすと、むっつりとした顔で下草のうえにあぐらをかいた。
「そんな簡単なことだったのか。電話の報告じゃ、いまにも息をひきとりそうなことをいっていたが」
「引揚げたときは、ほとんど参りかけていたんですが、あまり水を飲んでいなかったので、心臓麻痺の一歩手前で助かりました」
「二分近く、水の中であばれていたんだって?……いったい、なんのつもりで、湖水に飛びこんだんだい?」
「あの女のすることは、われわれにはわかりません……湖底に吸込孔があるとかないとかという口争いになって、そのうちに、いきなり飛びこんじゃった……一分以上経ってもあがってこないもんだから、大池の伜が心配して、空気ボンべを背負ってようすを見に行くと、いきなり水藻の中から出てきて、送気のゴム管を握って沈めにかけたというんです」
「妙な話だな。それを誰がいうんだ」
「大池の伜が……それで石倉という管理人が引分けに行ったが、あばれて手に負えないので、片羽絞《かたはじ》めで落しておいて、やっとのことでひきあげたんだそうです」
 主任はなにか考えてから、木村にたずねた。
「近くに、舟がいたか」
「私が……」
 と畑中がこたえた。
「二百メートルほど離れたところで錨繩を曳いていました。女の飛びこむところは見ませんでしたが、女をひきあげる前後の状況はだいたい事実だったように思います」
「それで?」
「ずっと酸素吸入をしていましたが、今のところまだ意識不明です」
「病院へ送ったろうね」
「いえ、病院に持ちこむには、行路病者の手続きをしなくてはならないので、ロッジのガレージにおいてあります」
「あの女に死なれると、捜査のひっかかりがなくなるんだぜ。なぜ、そんなところへおく」
「大池の細君が、どんなことがあってもロッジに入れないと突っぱるもんでね……といって、コンクリートの床に寝かされもしない。マトレスの古いのを一枚借りだすのがやっとのことでした」
「医者がついているのか」
「医者も救急車も、一時間ほど前にひきあげました」
 主任の額に暗い稲妻のようなものが走った。
「いい加減なことをするじゃないか。看護もつけずに放ってあるのか」
「大池の伜がつきっきりで看《み》ています。現在、築地の綜合病院でインターンをやっているんだそうで……」
「大池の伜というのは、いったい何者なんだ。そんなやつに共犯《とも》を預けて、安心していられるのか。裏でどんな軋《きし》りあいになっているか、わかったもんじゃない」
「部屋長さん、その点なら、心配はいらないように思いますがね」
 木村が笑いながらいった。
「大池の伜は、あの女に惚れているらしいですよ。たいへんな気の入れかたでね、舟からあげたときなどは、涙ぐんでおろおろしていました……父親の色女に惚れてならんという法律はないわけだから……」
 主任が閉《た》てきるような調子でいった。
「畑中君、石倉という管理人の経歴を洗ってくれないか」
「はっ」
「大池との関係も、くわしいほどありがたい……それから大池の細君の身許調査は?」
「二課にあるはずです」
「一括して、捜査本部へ送るように、至急、申送ってくれたまえ」
「かしこまりました」
「畑中君、二課の神保組はなにをしている?」
「根太をひンぬくような勢いで、六人掛りで大ガサをやっています……六千万からの証券を、こんな窮屈なところへ隠しこむわけはないと思うんだが……二課のやることは、われわれには理解できないです」
「大池が死体になって湖水の底に沈んでいようなんて、頭から信じてかかっているものは一人もいないが、この湖で自殺するという遺書があれば、やはり錨繩を曳いて死体の捜査をしなくてはならない。それとおなじことだよ……神保君が待っているだろう。そろそろ行こうか」
 三人がロッジに戻ると、捜査二課の神保組と伊東署の丸山捜査主任が広間の隅の床の上にあぐらをかいて煙草を喫っていた。
 徹底的にロッジの中を洗いあげたふうで、家具はみなひっくりかえされ、曳出しという曳出しは口をあき、颱風でも吹きぬけて行ったようなひどいようすになっていた。
「おい、加藤君……」
 神保部長刑事が広間の隅から呼びかけた。
「宇野久美子の装検をしたら、ジャンパーのかくしからこんなものが出てきたぜ」
「なんです」
「ブロミディア……普通にブロムラールといっているブロバリン系の催眠剤だ」
 そういいながら、アンチモニーの小さな容器を手渡した。
「それで?」
「十グラムが致死量だというから、相当、強力なやつにちがいない。こんなものを持っているところをみると、あの女も自殺するくらいの気はあったのらしい……あの女の行動に、常識では解きにくいような不分明なところがあるが、これで、いっそうわからなくなった」
「まったく、正体が知れないというのは、あの女のことです」
「大池は自殺したのか、生きているのか、どっちかわからないが、逃げようと思えば逃げる機会はあったはずなのに、嫌な目にあうのを承知でこんなところに居残っているのは、いったい、どういうわけなんだ」
「神保さん、そのことなんだ……私は三分の迷いを残して、大池は自殺したのだと考えるようにしていたが、宇野久美子のありかたを見ていると、大池は死んだのではなくて、どこか近くに隠れていて、宇野久美子と連繋をとりながら脱出する機会をねらっているのだと想像しても、おかしいことはないと思うようになった」
「考えられ得ることだ」
「大池が自殺したのでなければ、これははじめから企んでやった偽装行為だ。この辺のところは簡単明瞭だ……捜査二課の追及は相当執拗だったから、さすがの大池も疲労してこんなトリックをつかって捜査を中止させようとした……自殺する場所はどこにでもあるのに、この湖水をえらんだのは、死体があがったためしがないという伝説を利用するつもりだったのだろう……幼稚だが、思いつきは悪くない。われわれでさえ、暗示にひっかかって、身を入れてやれなかった」
「話はわかるがね、判定してかかっていいのか」
「公式的でおはずかしいが、こういうことじゃなかったかと思うのだ……木曜日の午後に湖畔に着く。金曜日の未明までに偽装の作業を完了する。女はロッジに残ってわれわれの出方を見ている……あるいは妨害をして死体の捜査を遅らせる」
「宇野久美子が湖水へ飛びこんだのは、捜査を遅らせるための所為だったというわけか」
「そうもとれるということだ……そうして、われわれを湖のまわりに釘づけにしておいて、土、日の夕方、観光バスにまぎれこんで、袋の底からぬけだす……悲しくなるほど単純なところが、この企画のすぐれているゆえんだ。われわれがひっかかるのは、得てして、こういう単純なことにかぎるんだから」
「大池はどこにいる?」
「それは土地署の練達に伺うほうが早道だ……丸山さん、大池
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