だ。
ほかにも、疑えば疑えることがある。キャンプ村のバンガローで泊るといったら、大池はいい加減なことをいって、キャンプ村に行かせなかった。久美子をロッジにひきとめようということなので、そうだとすれば、最初から殺意があったのだとしか思われない。
「あたしを殺せば、それでどうだというんだろう」
破産詐欺の容疑で、久しく逃げまわっていた大池忠平という人物は、ひどい淋しがり屋で、一人で自殺するのに耐えられず、行きずりに逢った女性を道連れにするつもりだったのか? それならそれで納得がいくのだが、二人でいた間の大池の言動を思いかえすと、モヤモヤしたわからないことがたくさんあって、どう考えても、そんな他愛のないことではなさそうだった。
いつの間にか眠ってしまったらしい。目をさますと一時近くになっていた。
広間へおりて行ってみると、本庁から来た連中は伊東署へひき揚げ、大池の細君と隆は川奈ホテルへ昼食に行き、丸山という年配の部長刑事が、昼食《ひる》をつかいながら事故係の報告を受けていた。
「水藻は思ったほどではありません……湖岸と湖棚を終りましたから、午後から標識を入れて最深部をやります」
「ご苦労さん……夕方までに揚らなかったら、明日からアクア・ラングでやる。空気ボンベを背負うと、百メートルぐらいまでもぐれるそうだから」
「道具は?」
「道具は大池の伜が持ってきた。あれ一人にやらせるわけにもいくまいから、指導してもらって、交代でやるんだな……電話で報告しておいてもらおうか。本庁の連中がジリジリして待っているだろうから」
事故係の警官は敬礼をしてロッジから出て行った。
「丸山さん、お聞きしたいことがあるんだけど……」
捜査主任は箸の先に飯粒をためたまま、まじまじと久美子の顔を見返した。
「おう、そうだった……君の昼食《ひる》を忘れていたよ」
「どうか、ご心配なく……」
久美子は言いたいだけのことを言ってやるつもりで、捜査主任と向きあう椅子にかけた。
「食べることなんか、どうだっていいけど、あたし、これからどうなるのか、お聞きしたいの……大池夫人は出て行けっていうけど、そういうわけにもいかないでしょう? 遣瀬ないのよ」
捜査主任は禿げあがった額をうつむけて、含み笑いをした。
「お察しするがね、気にすることはないよ」
「どうしても、ここに居なくちゃならないの?」
「どうしてもということはない。和歌山へ行こうと伊那へ行こうと、それは君の自由だ。呼出しを受けたら、その都度、伊東署へ来てもらえれば」
「すると、結局、ここから動けないということなのね」
捜査主任は微笑しながらうなずいてみせた。
「そのほうが、どちらのためにも都合がいいだろう、時間の節約にもなるし」
「死体があがるまで、こんなところで待っていなければならないというのは、どういうわけなんでしょう」
「君のためにも待っているほうがよさそうだ。検尿の結果、殺人容疑が、自殺干与容疑ぐらいで軽くすむかもしれないから」
「それは死体が揚れば、のことでしょう?……湖心に吸込孔があって、湖底が稚児※[#小書き片仮名ガ、308−上−1]淵につづいているもんだから、この湖水で死体が揚ったためしがないってことだったけど」
「それは伝説だ……この湖は石灰質の陥没湖じゃないから、吸込孔などあろうはずはない。いぜんは深かったが、関東大震災で底の浅い湖水になった。白髪になるまで待たせはしないから、安心したまえ」
ちょっとしたことだと思っていたが、どうやら殺人容疑になるらしい。久美子は気分を落ちつけるために、煙草に火をつけた。
「災難ね……あきらめて、死体が一日も早く揚るように祈ることにしましょう。キャンプ村のバンガローへ移りたいんだけど、いいでしょうか」
「バンガロー……いいだろう」
「あたしはK・Uじゃないから、頼まれたって後追い心中なんかしません。その点、ご心配なく」
捜査主任はアルミの弁当箱をハトロン紙で包みながら、
「腹をたてているようだが、それは君が悪いからだよ」
と宥めるような調子でいった。
「偽名をつかったり、絵描きでもないのに絵描きだといったり、怪しまれるのは当然だ……君は東洋放送の宇野久美子というひとだろう」
「お調べになったのね」
「それはもう、どうしたって」
「あたしがK・Uでないことは、おわかりになったわけね」
「言ってみたまえ」
「お調べになったことでしょうから、ごぞんじのはずだけど、一月から四月の末まで、どの放送にも出ていました……最近のひと月は、病気でアパートにひき籠っていたし……」
「それで?」
「大池は今年のはじめごろから、K・Uという女性と二人で、日本中を逃げまわっていたということですが、すると、あたしはK・Uであるわけはないでしょう? そんな暇はなかったから」
「その点は諒承したが、さっぱりしないところがある。ここへ来る前日、君は家財道具を伊那へ送っている。郷里の和歌山へ帰るといって、十時何分かの大阪行に乗ったはずの君が、伊豆のこんなところにいる……なぜ、そういう複雑なことをするのか、その辺のところを説明してくれないかぎり、われわれは同情しない……曖昧なことばかりいっていないで、この事件から解放されるように心掛けたらどうだ。不愉快な目に逢うだけでも損だと思うがね」
「和歌山へ行くつもりだったのは事実ですが、人間、気の変ることだってあるでしょう。そんなことでご不審を受けるのは心外よ」
「昨日の午後、川奈へ行く分れ道の近くで、大池の車に拾われたといったが、それは大池の気まぐれだったのか」
「たぶん、ね」
「その辺のところが理解しかねる……今夜にでも自殺しよという切羽詰った境遇にある男が、行きずりに、知らぬ女を拾って、家へ泊めたりするものだろうか? いぜん、なにか関係のあった女なら、話は別だが……」
「なにかの都合でK・Uの代用品のようなものがほしかったんじゃないかしら……K・Uなんて女性、ほんとうに存在するのかどうか知らないけど」
捜査主任はなにか考えていたが、伏眼になって苦味のある微笑を洩した。
「君はふしぎなことをいうね。捜査二課では、半年がかりで大池とK・Uという女性を追及しているんだが、君はK・Uなんていうものは存在しないという」
「それはそうだろうじゃありませんの。恋文だけがあって、誰も顔を見たことがないなんていう、あやしげな存在、あたし信用しないわ……大池というひとにしたって、ほんとうに自殺したのかどうか、死体を確認するまではわからないことでしょう」
「大池はたしかに自殺したらしい……この先、まだ逃げまわるつもりなら、伊豆の奥の、こんな袋の底のようなところへ入ってくるわけはないから……われわれの見解はそうだが、大池が生きているという事実でもあるのかね」
そういうのが警察の常識なら、決定的な場で、追及の裏をかく手もあるわけだと、久美子は考えたが、それは言わずにおいた。
警察から伝達があったのだとみえて、夕方、キャンプ村の管理をしている石倉が機外船で迎いにきた。
「ご苦労さま」
久美子が乗りこむと、機外船はガソリンの臭気とエンジンの音をまきちらしながら、対岸の船着場のほうへ走りだした。
「結局、バンガローへ行くことになったわ」
「バンガローといっても、ぼくの三角兵舎みたいなもので……荒れていますから、お気持が悪いでしょうが、湖畔のいちばん綺麗なのを掃除しておきました」
「あてなしに、フラリと出てきたもんで、飯盒も食器も持っていないんだけど、食事、どうしたらいいのかしら」
「ご食事はバンガローへお運びします」
「それは、たいへんよ……あなた、錨繩を曳く仕事があるんでしょう。飯盒を貸してくだされば、じぶんでやります」
「夜は、仕事がないのですから、お気づかいなく」
風が出て空が晴れ、雲の裂目から茜色の夕陽が湖水の南の山々にさしかけた。
樹牆のように密々と立ちならぶ湖畔の雑木林の梢の上に、ロッジの屋根の一部と赤煉瓦の煙突が、一種、寂然たるようすであらわれだしている。植物のつづきのようで、家があるようには見えず、なにか異様な感じだった。
「石倉さん、あのロッジはどうした家なのかしら。あんなところにポツンと一軒だけ建てたというのは……別荘というにしては、すこし淋しすぎるようね」
「あれはリットンというイギリス人の持家で、冬になると、そこらじゅうの西洋人が駕籠に乗ってやってきて、広間で夜明しのバクチを打っていたそうで……そういう因縁のある家なんです。大池さんがお買いになったのは、戦後のことですが、妙な噂があって思いが悪いので、私なども、極力、反対したのですが、大池さんも、とうとう、こんなことになってしまって……」
そういうと、湖心の最深部の輪廓をしめす、赤旗の標識を指さした。
「あの旗の立っているところが湖水のいちばん深いところです……明日、ご子息さまが潜水具をつけて潜られるそうですが、湖盆の深所の中ほどのところに、大きな吸込孔があるので、とても、いけまいと思います」
「つまり、死体が揚らないだろうということなのね」
石倉は重々しく首を振った。
「アクア・ラングなんかじゃ、仕様がない。本式の潜水夫を入れないことには、どうにもならないというこってす」
久美子はさり気なくたずねてみた。
「吸込孔って、どんなぐあいになっているものなの?」
「湖盆の深所まで五十メートル……そこから孔になって更に百メートル……その先、どれほど深いか測ったことがありません」
捜査主任は、湖底平原の吸込孔は、陥没湖の可容性地層が溶けてできるものだから、この湖に吸込孔はあり得ないといった。言われてみれば、そのとおりで、火口状の凹地に湛水《たんすい》した火口原湖に、水の湧く吸込孔などあるはずがない。石倉がなんのためにありもしない吸込孔を、あると言い張るのか理解できなかった。
石倉の選んだバンガローは、キャンプ村の端れにあって、船着場のそばに一つ離れて建っていた。窓のない柿葺《こけらぶき》の小屋で、二坪ほどの板敷に古茣蓙《ふるござ》を敷いてある。入口の扉は乾反《ひぞ》って片下《かたさが》りになり、どうやってみても、うまくしまらなかった。
一時間ほど湖畔を散歩して、バンガローへ帰ると、夕食が届いていた。罐詰のシチュウとミートボール……昨夜、ロッジで夕食に出たのと、おなじものだった。
「おお、いやだ」
昨夜は成功しなかったから、もういちど、やってやれというわけか?
「あたしは殺される」
なんのためだか知らないが、そういう形勢になっているらしい。
いまになれば、思いあたるのだが、今朝、石倉が自転車でロッジへやってきたのは、当然、死んでいるはずの人間を、検察に来たのだ。久美子がガウンの裾をたくしあげながら玄関へ出て行くと、石倉は意外と失望のまじった、遣瀬ないような顔をした。表情がすべてを語っていた……
険呑な境涯に落ちこんだ。自分の力で身をまもるほか、やりようがない。暗くなるのを待って、夕食に出たものを裏の草むらに捨て、眠るとあぶないと思って、朝まで眼をあいていた。
翌朝、十時ごろ、隆と石倉がバンガローへやってきた。
「宇野さん、これから父の死体をあげますから、いっしょに船に乗ってください」
あまり悧口ではないようだ。もう、わかってもいいはずなのに、まだ、こんなことをいっている。
「なぜ、あたしがそんなおつきあいをしなくちゃ、ならないの」
「あなたは父の死際に薄情な真似をした。せめて、水から揚るところを、見てやってくれとおねがいしているんです」
久美子は腹をたてて、大きな声でやりかえした。
「なんであろうと、強制されるのは、まっぴらよ」
「昨日、捜査主任に、父の死体は揚らないだろうといったそうですね。父の死体が揚ると、困ることがあるんでしょう」
「そんなふうには言わなかったわ……探しても見つからないなら、最初から死体なんか無かったんだろう、と言ったのよ」
「それは、どういう意味ですか」
久美子は怒りに駆られて、心にあることを、そのままぶちまけた。
「
前へ
次へ
全11ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング