大池は腕組みするような恰好で胸を抱き、脇間の扉口のそばに影のように立っていた。ものの十分ほどもしてから、服の袖で額の汗を拭うと、片手で胸をおさえ、壁にすがりながら壁付灯の下まで行ったが、力がつきたように、そこで動かなくなってしまった。
「どうかしたんだわ」
 久美子の恐れていたようなことは、なにもなかった。
 壁付灯の光に照らしだされた大池の正体は、意外にもみじめなものだった。湖岸の泥深いところを歩きまわったのだとみえ、膝から下が泥だらけになり、靴にアオミドロがついている。濡れた髪を額に貼りつかせ、土気色《つちけいろ》になった頬のあたりから滴《しずく》をたらしているところなどは、いま湖水からあがってきた、大池の亡霊とでもいうような、一種、非現実的なようすをしていた。
「う、う、う……」
 大池は肩息をつきながら、家宅捜索でめちゃめちゃにひっくりかえされた広間の中を見まわし、マントルピースの端に縋って食器棚《ビュッフェ》のほうへよろけて行ったが、曳出しに手をかけたまま、ぐったりと食器棚に凭れかかった。
「ああ、誰か……」
 たいへんな苦しみようだ。久美子は闇の中に立っていたが、放ってお
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