もたいしたことはないと、急に気持が沈んできた。
「胸のところに色糸《いろいと》でK・Uという頭文字が刺繍《ぬいとり》してある……君の名は栂尾《とがお》ひろ、当然、H・Tでなければならないわけだ」
 顔色が変るのが、自分にもわかった。
 宇野久美子は、豊橋と大阪の間で消滅し、栂尾ひろという無機物のような女性が誕生した。久美子のつもりでは、癌腫という残酷な病気を笑ってやる戯れのつもりだったが、抜きさしのならない嘘になって、きびしく跳ねかえって来ようとは、思ってもいなかった。
「この運動靴の底に、エビ藻とフサ藻が、躙《にじ》りつけたようなぐあいになってこびりついている……湖や沼の岸にある淡水藻はアオミドロかカワノリ……エビ藻やフサ藻は、湖水の中心部に近いところに生えているのが普通だ……どうしてこんなものが靴底についたか? 深く沈んで、湖底を蹴りつけたからだとわれわれは考えるので、岸に近いところで落ちこんだという説には、承服しにくいのです。いま誰かつけてあげるから、どこで陥《はま》ったか、その場所をおしえてください」

 私服に挟まれて、けさ落ちこんだ湖の岸を探しに行ったが、記憶がおぼろで、た
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