じゃ……」
 石倉が林の中の道に姿を消すと、間もなく機外船のモーターがかかり、エンジンの音が岸から遠退いて湖心のほうへ進んで行った。
「こんなことも、あるものなんだ」
 湖心まで漕ぎだし、自殺しようと思っていたそのボートに乗って出て身投げをした男がいる。こういう偶然も、この世には、あればあるものなのだろう。
 そのほうはさらりと思い捨てたが、なんとも納得のいかないことがある。昨日、大池が鍵を持っている管理人が吉田へ行っているから、バンガローには泊れないだろうといった。聞くと、バンガローには鍵がかからなくて、誰でも自由に入れるようになっているという。なんのことだかよくわからないが、ふとした疑問が久美子の心に淀み残った。

 クラクションの音がした。
 玄関の脇窓からのぞくと、昨日、大池と二人でやってきた湖水沿いの道を黒い大型のセダンが走ってくるのが見えた。
「やってきた」
 芝生の間の砂利道で車がとまると、お揃いのように紺サージの背広を着た男が二人と官服の警官が一人、左右のドアをあけ、職業的とでもいうような馴れきった身振りでサッと車から降りた。
 そのあとから、上役らしい四十二、三の口髯
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