ね。いちいち礼をいうことはない……まあ、その椅子に掛けなさい。名乗りをしなかったが、私は大池忠平……」
「申しおくれました。あたくし栂尾《とがお》ひろと申します」
「これも、なにかの縁でしょうな。以後、御別懇に……絵を描くひとに、こんなことをいうのは妙なもんだが、風景ってのは、油断のならないものだと思うんだが、あなたはそんなことを考えたことはないですか」
 と、思わせぶりなことをいいだした。
「ここへ来る途中で思いだしたんだが、あなたのような絵を描くひとに、いちどたずねてみたいと思っていたことがあるんだ」
「あたしなどにわかりそうもないけど」
「四、五年前、この湖へ身投げをした女があった。その女の亭主だと思うんだが、蓑笠をつけた男が、雨の降る中を、菱を分けながらさがしまわっていた……この湖では、死体があがったためしがないんだから、そんなことをしたって無駄な骨折りなんだが、いく日もいく日も、あきらめずにやっている……それを見てから、私の自然観にたいへんな変化が起った……それまでは、見たままの自然で満足していたものだったが、それ以来、ひどくひねくれてしまって、すぐ自然の裏を考える。この湖は
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