げよう」
 今夜の泊りなどは考えてもいなかったが、久美子は思いつきで、出まかせをいった。
「もう、ここで結構ですわ……キャンプ村のバンガローを借りて、今夜はそこで泊ります」
「バンガローの鍵を持っている管理人は、今日は吉田へ行っているはずだ。売店なんかもやっていないだろうし、生憎《あいにく》だったね」
 久美子が弱ったような顔をしてみせると、そのひとはむやみに同情して、この辺には宿屋なんかないから、大室山の岩室ホテルへでも行くほかはなかろうと、おしえてくれた。
「ホテルになんか、とても……お金がないんです。ごらんのとおりの貧乏絵描きですから」
 紳士はなにか考えていたが、
「そんなら、私の家へ来たまえ」
 と、おしつけるようにいった。
「でも、それではあんまり……」
「なにもお世話はできないが、一晩ぐらいならお宿《やど》をしよう」
 車をすこしあとへ戻して、林の中の道を湖の岸についてまわりこんで行く。
 どれがどの技とも見わけられないほど、青葉若葉が重なった下に、眼のさめるような緑青色の岩蕗や羊歯が繁っている。灰緑から海緑《ヴェル・マレエ》までのあらゆる色階をつくした、ただ一色の世界で
前へ 次へ
全106ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング