「なんでもないことはない。そんなことをしていると風邪をひく。遠慮しないで乗りたまえ」
振りきってしまいたかったが、これ以上断るのはいささか不自然だ。うるさいひっかかりにならなければいいがと思いながら、おそるおそる車の中に身を入れた。
「すみません」
久美子が運転席に腰を落ちつけると、車が走りだした。
「体力で絵を描くのだというが、なるほど、たいへんなものだね、雨の中を湖水まで歩いて行こうという元気は……あなた東京ですか」
「はあ、東京です」
久美子はうるさくなって、素っ気ない返事をした。紳士のほうも、ものをいう興味を失ったのだとみえて、黙りこんでしまった。
雨がやんで雲切れがし、道のむこうが明るくなったと思ったら、天城の裾野のこじんまりとした湖の風景が、だしぬけに眼の前に迫ってきた。
周囲一里ほどの深くすんだ湖水が、道端からいきなりにはじまり、岸だというしるしに、菱や水蓮が水面も見えないほど簇生している。湖心のあたりに二ヶ所ばかり深いところがあって、そこだけが青々とした水色になっていた。
湖のほとりで車を停めると、紳士がたずねた。
「泊るところはどこ? ついでだから送ってあ
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