うと、クルリと丸山捜査課長のほうへ向きかえた。
「丸山さん、これゃ捜査の対象にならないね。二課はどうするか知らないが、われわれは、明日、引揚げます。書置一本に釣られて、こんな騒ぎをしたと思うと、おさまりかねるんだが、どうしようもないよ」
そこへ本庁の木村刑事が、婦人用のスーツ・ケースをさげてブラリと入ってきた。
「部屋長さん、遅くなりました。ちょっと聞込みをしていたもんだから」
「なんだい、そのスーツ・ケースは」
「これですか。これは宇野久美子の遺留品です」
「そんなもの、どこにあったんだ?」
「大阪行、一二九列車の二等車の網棚の上に……二等車の乗客の中に、宇野久美子のファンがいた。宇野久美子がスーツ・ケースを提げて入って来たので、宇野久美子だと思いながら見ていると、このスーツ・ケースを網棚に放りあげて、前部の車室に行ったきり、大阪駅へ着いても帰って来ない。それで車掌に、これは東洋放送の宇野久美子のスーツ・ケースだから、東京へ転送してくださいと頼んだというのです」
「開けてみたまえ」
木村はジッパーをひいて、スーツ・ケースの内容をさらけだした。灰銀のフラノのワンピースに緋裏《ひうら》のついた黒のモヘアのストール、パンプスの靴とナイロンの靴下が入っていた。
「つまり、これは宇野久美子がアパートを出るときに着ていたものなんだな」
「そうです。管理人の細君が確認しました」
「豊橋駅はどうだった」
「木谷刑事をやりましたが、ちょっと奇妙なことがありました。駅の広報係が、その汽車に乗り遅れたから、待たずに、先に行ってくれと、東洋放送の宇野久美子宛のアナウンスを依頼された。その女は、ナイロンのジャンパーに紺のスラックスを穿き、ベレエをかぶって、絵具箱を肩にかけていたというんです」
「なんだ、それは宇野久美子自身じゃないか。どういうことなんだろう」
「さあ、どういうことなんでしょう……変った聞込みが二つありました」
「どうぞ」
「宇野久美子のジャンパーのポケットに、ブロムラール系の催眠剤が入っていたといわれましたが、三年前、大池忠平の前の細君が、ブロムラール系の催眠剤の誤用で死んでいます」
「どこで聞きこんだ?」
「大池忠平の身元調書に、細君が中毒死したという記載がありましたので、主治医を探して聞きだしました……もうひとつは、これも二年前の秋、声優グループの仲《なか》数枝という女が、宇野久美子の部屋で自殺しています。宇野久美子の行李の細引で首を締めて、一気に裏の竹藪へ飛んだというんです……結局、自殺ということになりましたが、一時は、絞殺して、二階の窓から投げ落したんじゃないかという嫌疑が濃厚だったそうです」
「それだけか」
「いまのところは、これだけですが、洗えばまだまだ、いろいろなことが出てきそうです」
大池は、身体の深いところを測るような、深刻な眼つきで、ジギタミンを三錠ずつ、一時間おきに飲んだ。動悸もおさまり、普通に話ができるようになったが、胸中の不安はいっこうに薄らがぬふうで、見るもみじめなほど悶えていた。
「大池さん、十時間や十二時間、すぐ経ってしまってよ……一人でいるのが不安なら朝までおつきあいしますから、イライラするのはよしなさい……だいじょうぶ、死にはしないから」
「自分の身体のことは、私がよく知っている。とても明日の朝まで保《も》ちそうもない。だめだという感じだけで参ってしまうんだ……頭のたしかなうちに、言っておきたいことがある。宇野さん、聞いてくれないかね」
聞きたいことなど、なにもない。だまっていてくれるほうが望みだったが、大池のあわれなようすを見ると、そうは言いかねた。
「聞いてあげてもいいわ。それで、あなたが気が休まるなら」
「私が何者だか、君はもう察しているだろう。二十日の朝、名古屋の私のところへ、君代が東京から長距離電話で、こんなことをいってきた。半年近く逃げまわって、忠平が疲れきっているから、すこし休ませてやりたい。忠平のところへ石倉をやって、この湖水で自殺するという遺書を書かせたが、形のないことではしょうがないから、伊豆へ行ってロッジで一と晩、泊ってくれれば、あとは石倉がいいようにこしらえるから、という話なんだ」
「石倉って、どういう関係のひとなんです?」
「石倉は君代の弟だ……トンネル会社へ融資する形式で隠しこんだ資産を、捜査二課では三千万から六千万の間と踏んでいるらしいが、どんな操作をしたって、そんな芸当ができるわけはない。その十分の一もあればいいほうだ、わずかばかりの隠し財産に執着して、時効年まで逃げまわるなんて、バカな話だと思うんだが、世間ではそろそろ忘れかけているのに、下手に捕って、むしかえされるのではかあいそうだという気持もあった……企画は、まったく他愛のないようなことなんだ……兄が乗
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