ンチモニーの小さな容器を手渡した。
「それで?」
「十グラムが致死量だというから、相当、強力なやつにちがいない。こんなものを持っているところをみると、あの女も自殺するくらいの気はあったのらしい……あの女の行動に、常識では解きにくいような不分明なところがあるが、これで、いっそうわからなくなった」
「まったく、正体が知れないというのは、あの女のことです」
「大池は自殺したのか、生きているのか、どっちかわからないが、逃げようと思えば逃げる機会はあったはずなのに、嫌な目にあうのを承知でこんなところに居残っているのは、いったい、どういうわけなんだ」
「神保さん、そのことなんだ……私は三分の迷いを残して、大池は自殺したのだと考えるようにしていたが、宇野久美子のありかたを見ていると、大池は死んだのではなくて、どこか近くに隠れていて、宇野久美子と連繋をとりながら脱出する機会をねらっているのだと想像しても、おかしいことはないと思うようになった」
「考えられ得ることだ」
「大池が自殺したのでなければ、これははじめから企んでやった偽装行為だ。この辺のところは簡単明瞭だ……捜査二課の追及は相当執拗だったから、さすがの大池も疲労してこんなトリックをつかって捜査を中止させようとした……自殺する場所はどこにでもあるのに、この湖水をえらんだのは、死体があがったためしがないという伝説を利用するつもりだったのだろう……幼稚だが、思いつきは悪くない。われわれでさえ、暗示にひっかかって、身を入れてやれなかった」
「話はわかるがね、判定してかかっていいのか」
「公式的でおはずかしいが、こういうことじゃなかったかと思うのだ……木曜日の午後に湖畔に着く。金曜日の未明までに偽装の作業を完了する。女はロッジに残ってわれわれの出方を見ている……あるいは妨害をして死体の捜査を遅らせる」
「宇野久美子が湖水へ飛びこんだのは、捜査を遅らせるための所為だったというわけか」
「そうもとれるということだ……そうして、われわれを湖のまわりに釘づけにしておいて、土、日の夕方、観光バスにまぎれこんで、袋の底からぬけだす……悲しくなるほど単純なところが、この企画のすぐれているゆえんだ。われわれがひっかかるのは、得てして、こういう単純なことにかぎるんだから」
「大池はどこにいる?」
「それは土地署の練達に伺うほうが早道だ……丸山さん、大池が生きているとすれば、どの辺にいるでしょう。可能性のことだが」
丸山捜査主任は、図面を見てくださいといいながら、床の上に地図をひろげた。
「二十三日の金曜日の朝以来、萩、十足《とおたり》、湖水の分れ道、吉田口……この四ヵ所で終日検問を実施しているが、大池らしいやつが出た形跡がないから、潜伏しているなら、湖水を中心にした十号国有林の中以外ではない……このロッジの地境に猪除けの堀がありますが、そのむこうが十号国有林の北の端です……いまは気候がいいから、そのつもりでテントや食糧を用意して入れば、二ヵ月や三ヵ月は平気でしょう……ただし、つかまえようということになったら、五百人ぐらいも人を出して山狩りをしないことには、どうにもならない。また、そうしたからといって、かならず成功するとは保証できません」
神保部長刑事が思いついたようにいった。
「加藤君、昨日は、警戒されて失敗したが、もういちど宇野久美子を泳がせてみるか。大池としては企図したことが成功したんだから、そんなところにこれから幾月も隠れていることはない。できるだけ早くぬけだしたいと思うだろう」
「そうはいうが、あいつはひどく敏感だから、かんたんには欺せないよ……泳ぎだすどころか、昨夜はバンガローで朝まで眼をあいていた」
久美子は重苦しい意識の溷濁《こんだく》の中で覚醒した。
眼をあいて瞬きをしているつもりなのに、冥土の薄明りとでもいうような、ぼんやりとした微光を感じるだけで、なにひとつ眼に映らない。
湿っぽいブヨブヨしたものの上に仰臥しているのだが、虚脱したようになって身動きする気にもならない。なにかもの憂く、もの悲しく、ひとりでに泣けそうになる。
この感覚におぼえがあった。
「……また、やった」
夜明しのパーティでつぶれてしまい、やりきれない疲労と自己嫌悪の中で眼をさますあの瞬間――眼をさましたといっても、はっきりとした自覚があるわけではない。遊び呆《ほう》けたあとの憂鬱が身体に沁みとおり、わけもなく飲みつづけたコクテールやジン・フィーズの酔いで手足が痺《しび》れ、そのまま、ふと夢心地になる……
「それにしても、あたしはどこにいるんだろう」
掌で身体のまわりを撫でてみる。マトレスの粗木綿《デニム》のざらりとした感触。マトレスの下は冷え冷えとしたコンクリートの床だ。マトレスの上に、下着もなしに裸で寝てい
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