名たらずです……死体捜査の邪魔になるし、こっちの岸へやってこられると困るから、絶対にボートを貸さないように管理人に言っておきました」
「そうまですることはない。おれの言っているのはべつなことだ……それで、女はどうなった?」
畑中にかわって木村がこたえた。
「今日一日、安静にしておけば回復するだろうといっていました」
主任は火のついた煙草を指ではじき飛ばすと、むっつりとした顔で下草のうえにあぐらをかいた。
「そんな簡単なことだったのか。電話の報告じゃ、いまにも息をひきとりそうなことをいっていたが」
「引揚げたときは、ほとんど参りかけていたんですが、あまり水を飲んでいなかったので、心臓麻痺の一歩手前で助かりました」
「二分近く、水の中であばれていたんだって?……いったい、なんのつもりで、湖水に飛びこんだんだい?」
「あの女のすることは、われわれにはわかりません……湖底に吸込孔があるとかないとかという口争いになって、そのうちに、いきなり飛びこんじゃった……一分以上経ってもあがってこないもんだから、大池の伜が心配して、空気ボンべを背負ってようすを見に行くと、いきなり水藻の中から出てきて、送気のゴム管を握って沈めにかけたというんです」
「妙な話だな。それを誰がいうんだ」
「大池の伜が……それで石倉という管理人が引分けに行ったが、あばれて手に負えないので、片羽絞《かたはじ》めで落しておいて、やっとのことでひきあげたんだそうです」
主任はなにか考えてから、木村にたずねた。
「近くに、舟がいたか」
「私が……」
と畑中がこたえた。
「二百メートルほど離れたところで錨繩を曳いていました。女の飛びこむところは見ませんでしたが、女をひきあげる前後の状況はだいたい事実だったように思います」
「それで?」
「ずっと酸素吸入をしていましたが、今のところまだ意識不明です」
「病院へ送ったろうね」
「いえ、病院に持ちこむには、行路病者の手続きをしなくてはならないので、ロッジのガレージにおいてあります」
「あの女に死なれると、捜査のひっかかりがなくなるんだぜ。なぜ、そんなところへおく」
「大池の細君が、どんなことがあってもロッジに入れないと突っぱるもんでね……といって、コンクリートの床に寝かされもしない。マトレスの古いのを一枚借りだすのがやっとのことでした」
「医者がついているのか」
「医者も救急車も、一時間ほど前にひきあげました」
主任の額に暗い稲妻のようなものが走った。
「いい加減なことをするじゃないか。看護もつけずに放ってあるのか」
「大池の伜がつきっきりで看《み》ています。現在、築地の綜合病院でインターンをやっているんだそうで……」
「大池の伜というのは、いったい何者なんだ。そんなやつに共犯《とも》を預けて、安心していられるのか。裏でどんな軋《きし》りあいになっているか、わかったもんじゃない」
「部屋長さん、その点なら、心配はいらないように思いますがね」
木村が笑いながらいった。
「大池の伜は、あの女に惚れているらしいですよ。たいへんな気の入れかたでね、舟からあげたときなどは、涙ぐんでおろおろしていました……父親の色女に惚れてならんという法律はないわけだから……」
主任が閉《た》てきるような調子でいった。
「畑中君、石倉という管理人の経歴を洗ってくれないか」
「はっ」
「大池との関係も、くわしいほどありがたい……それから大池の細君の身許調査は?」
「二課にあるはずです」
「一括して、捜査本部へ送るように、至急、申送ってくれたまえ」
「かしこまりました」
「畑中君、二課の神保組はなにをしている?」
「根太をひンぬくような勢いで、六人掛りで大ガサをやっています……六千万からの証券を、こんな窮屈なところへ隠しこむわけはないと思うんだが……二課のやることは、われわれには理解できないです」
「大池が死体になって湖水の底に沈んでいようなんて、頭から信じてかかっているものは一人もいないが、この湖で自殺するという遺書があれば、やはり錨繩を曳いて死体の捜査をしなくてはならない。それとおなじことだよ……神保君が待っているだろう。そろそろ行こうか」
三人がロッジに戻ると、捜査二課の神保組と伊東署の丸山捜査主任が広間の隅の床の上にあぐらをかいて煙草を喫っていた。
徹底的にロッジの中を洗いあげたふうで、家具はみなひっくりかえされ、曳出しという曳出しは口をあき、颱風でも吹きぬけて行ったようなひどいようすになっていた。
「おい、加藤君……」
神保部長刑事が広間の隅から呼びかけた。
「宇野久美子の装検をしたら、ジャンパーのかくしからこんなものが出てきたぜ」
「なんです」
「ブロミディア……普通にブロムラールといっているブロバリン系の催眠剤だ」
そういいながら、ア
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