んだような静かな湖水の上で、ボートや田舟が錨繩を曳きながらユルユルと動きまわっている。それを見ているうちに、胸のあたりがムズムズして、笑いたくなった。
「マラソン競走は、あたしの負けだったわ」
寝室の扉口で大池の細君が癇癪をおこしている。
「あなたはここでなにをしているんです?……大池が死んでからまで、ベッドに這いこもうなんて、あんまり厚顔《あつかま》しすぎるわ。恥ということを知らないの」
母親の癇声を聞きつけて、息子なる青年が二階へ駈け上って来た。
「お母さん、みっともないから、怒鳴るのはやめてください」
「誰が怒鳴るようにしたの……あんな女の肩を持つことはないでしょう。はやく警察へ連れて行かせなさい。ともかく、この部屋から出てもらってちょうだい」
「出てもらいましょう……僕がよく話しますから、あなたは階下《した》へいらっしゃい」
どんな扱いをされても、文句はない。久美子は窓のほうをむいて、しおしおと着換えにかかった。
「あなたは東洋放送の宇野久美子さんですね……テレビでお顔は見ていましたが、あなたがK・Uだとは知らなかった……何年も前から、いちどお目にかかりたいと思っていました……あなたのことは父から聞いていましたので、他人のような気がしなかったんです」
甘ったれた口調で、息子がそんなことを言っている。
「お出かけですか」
着換えをする手を休めて振返ると、階下《した》へ行ったとばかし思っていた大池の長男が、まだ扉口に立っていた。
どこかで似た顔を見た記憶がある。
すぐ思いだした。『悪魔のような女』という映画で校長の役をやったポール・ムウリッスのある瞬間の表情……視点の定まらない、爬虫類の眠ったように動かぬ眼になる、あの瞬間の感じにそっくりだった。
「ここにお邪魔しているわけにはいかないでしょう。目ざわりでしょうしね……いつでも警察へ行けるように、支度をしているところ」
「私に出来ることがあったら」
「おねがいしたいことがあるんだけど」
長男が熱っぽくいった。
「ええ、なんでも」
「それで、あなた……」
「隆《たかし》です」
「隆さん、あたしを一人にしておいていただきたいの……女が着換えをしているところなんか、見るほうが損をするわ」
それでも動かない。久美子は癇をたてて、ナイト・ガウンの上前《うわまえ》をおさえながら隆のほうへ向きかえた。
「あたしの言ったこと、おわかりにならなかったかしら」
「よくわかっていますが、ちょっと……」
隆は広間に張りだした廊下のほうへ、ほのかな目づかいをしてから、上着のポケットからなにかだして、だまって夜卓の上に置いた。
久美子が湖水に身を沈める前に飲むことにしていた睡眠剤の小さなアンチモニーの容器だった。
「これが、どこに?」
「煖炉のそば……薪箱の中に」
ジャンパーの胸のかくしに入れておいた。椅子の背に掛けて乾かしているうちに、ころげだしたのらしい。
「ブロミディア……十錠が致死量とは、すごい催眠剤ですね」
死んだように動かない嫌味な眼を除けば、どこといって一点、特色のない平凡なサラリーマンのタイプだ。たいして頭のいいほうでもないらしいが、この青年は、久美子がなにをしようとしているか、もう察しているらしい。
「これを他人に拾われるまで、気がつかずにいるなんて……」
久美子は心の中で呟きながら、強く唇を噛んだ。
気の弛《ゆる》みから、ものを落したり、まちがいをしたりするような経験は、久美子にはまだなかった。自分の生存を断絶させようというのは、親譲りの癌腫というぬきさしのならない宿命にたいする崇高なレジスタンスなんだと自分では信じている。久美子のほか、たぶん神も知らない意想の中の秘密を、こんな愚にもつかない男に隙見されたかと思うと、口惜しくてひとりでに身体がふるえだす。とめようと思うと汗がでた。
「すごいというなら、阿片丁幾《ローダノム》なんてのがあるわ。これは、たいしたもんじゃないのよ……どうも、ありがとう」
扉口から離れたので、階下へ行くのかと思ったら、そうではなく、足音を盗むようにしながら、ぬうっと久美子のそばに寄ってきた。久美子は気圧《けお》されてひと足、後に退った。
「警察の連中は……」
隆がささやくようにいった。
「あなたが父の後を追うようなことをなさるかと……いやな言葉だけど、後追《あとお》い心中をするかと、そればかりを心配しているんです」
久美子は露骨に皮肉な調子で浴びせかけた。
「すると、これを返してくださるのは、どういうわけ?」
「いまのところ、あなたは自殺干与容疑の段階にいるんですが、父の死体が揚らないかぎり、逮捕することも身柄を拘束することもできないけれども、こんなものが見つかると、あなたはすぐ留置されます。容疑者の自殺は証拠湮滅の企図
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