池の車に拾われ、ロッジで泊めてもらうことになったという話をした。
「すると、まったくの出合だったんだね」
 捜査一課の秀才は面白そうに笑っていたが、
「君は水泳はうまいですか」
 と、だしぬけにたずねた。
「余談だけど、泳げばどれくらい泳げる?」
「あたし、和歌山の御坊大浜で生れて、荒波の中で育ったようなものなの……どれくらい泳げるかためしたことはないけど、飽きなければ、いつまででも泳いでいるわ」
「そうだろうと思った。水になじむ身体か、そうでないか、ひと眼でわかる……それで、あそこに乾してある服や下着は、君のものなんだね?」
「ええ、そう。みっともないものを掛けならべて、おはずかしいわ」
「昨日雨に濡れた? 丸山さんの話では、ほんの通り雨だったということだが、下着まで濡れるというのは……」
「雨のせいでなくて、靄のかかった湖の岸を歩いているうちに、朽木の根につまずいて、湖へはまりこんだというわけ」
「靄がかかっていた?……すると、朝の四時ごろのことでしょうが、そんなに早く、なにをしに湖水のそばへ行った?」
 自殺するために、湖心へ漕ぎだすボートを探していた、といっても、通じるような話ではない。こんな連中に意想の中のことまでうち明ける気持はなかった。
「散歩よ……あたしたち、どうせ、気まぐれなのよ」
「それに、君の絵はユニークなものらしい。筆を使わずに、指で絵具を塗《なす》る指頭画というのがあるそうだが、君のはその流儀なんだね?」
 指頭画……聞いたこともない。
「あたしの絵はそんなむずかしいもんじゃないのよ」
 捜査一課の秀才はメモを取っている刑事に命令した。
「そこの絵具箱を、こっちへ……ついでに、シュミーズと運動靴を……」
 刑事が言われたものを捜査一課のところへ持って行くと。秀才は笑いながら絵具箱の蓋をあけた。
「湖水の風景をスケッチに来たんだそうだが、このとおり、ブラッシュが一本も入っていない。それで、れいの指で描くやつかと思った……それから、この下着だが、君のものではないらしいね。貧乏だなんていっているが、これはタフタの上物だ。シャンディイのレースがついて、安いものじゃないよ」
 大阪行の二等車の化粧室でお着換えしたとき、見かけだけに頼って、下着を変えることを考えなかった。細かいところまで考えぬいたつもりだったが、こんな抜けかたをするようでは、自分の思考もたいしたことはないと、急に気持が沈んできた。
「胸のところに色糸《いろいと》でK・Uという頭文字が刺繍《ぬいとり》してある……君の名は栂尾《とがお》ひろ、当然、H・Tでなければならないわけだ」
 顔色が変るのが、自分にもわかった。
 宇野久美子は、豊橋と大阪の間で消滅し、栂尾ひろという無機物のような女性が誕生した。久美子のつもりでは、癌腫という残酷な病気を笑ってやる戯れのつもりだったが、抜きさしのならない嘘になって、きびしく跳ねかえって来ようとは、思ってもいなかった。
「この運動靴の底に、エビ藻とフサ藻が、躙《にじ》りつけたようなぐあいになってこびりついている……湖や沼の岸にある淡水藻はアオミドロかカワノリ……エビ藻やフサ藻は、湖水の中心部に近いところに生えているのが普通だ……どうしてこんなものが靴底についたか? 深く沈んで、湖底を蹴りつけたからだとわれわれは考えるので、岸に近いところで落ちこんだという説には、承服しにくいのです。いま誰かつけてあげるから、どこで陥《はま》ったか、その場所をおしえてください」

 私服に挟まれて、けさ落ちこんだ湖の岸を探しに行ったが、記憶がおぼろで、たしかにその場所を示すことはできなかった。
 一時間ほど後、ひどく疲れてロッジへ帰ると、大池の細君と息子が着いていて、係官となにか小声で話していた。
 大池の細君は、久美子がK・Uだと思いこんでいるらしく、こちらへ振返っては、いいしれぬ敵意のこもった眼差で、久美子を睨みすえた。
 久美子は煖炉の前の揺椅子に沈みこみ、罪を犯したひとのように首を垂れ、理由のない迫害に耐えていたが、そのうちに、こんなことをしていること自体が、忌々しくて、我慢がならなくなった。
 それにしても、なにか、たいへんなところへ陥りこんでしまったらしい。捜査一課の秀才の表現から推すと、自殺干与容疑か、自殺幇助容疑……悪くすると、偽装心中などというむずかしいところに落着くらしい形勢だった。
 捜査一課は、いまのところ寛大ぶって笑っているが、いざとなったら、悚《すく》みあがるようなすごい顔を見せるのだろう。どのみち、警察へ持って行かれるのは、まちがいのないところだから、いまのうちに着換えをすましておくほうがいい。
 久美子は生乾きのジャンパーや下着を腕の中に抱えとると、着換えをするために、二階の部屋へあがって行った。
 死
前へ 次へ
全27ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング