大池は腕組みするような恰好で胸を抱き、脇間の扉口のそばに影のように立っていた。ものの十分ほどもしてから、服の袖で額の汗を拭うと、片手で胸をおさえ、壁にすがりながら壁付灯の下まで行ったが、力がつきたように、そこで動かなくなってしまった。
「どうかしたんだわ」
久美子の恐れていたようなことは、なにもなかった。
壁付灯の光に照らしだされた大池の正体は、意外にもみじめなものだった。湖岸の泥深いところを歩きまわったのだとみえ、膝から下が泥だらけになり、靴にアオミドロがついている。濡れた髪を額に貼りつかせ、土気色《つちけいろ》になった頬のあたりから滴《しずく》をたらしているところなどは、いま湖水からあがってきた、大池の亡霊とでもいうような、一種、非現実的なようすをしていた。
「う、う、う……」
大池は肩息をつきながら、家宅捜索でめちゃめちゃにひっくりかえされた広間の中を見まわし、マントルピースの端に縋って食器棚《ビュッフェ》のほうへよろけて行ったが、曳出しに手をかけたまま、ぐったりと食器棚に凭れかかった。
「ああ、誰か……」
たいへんな苦しみようだ。久美子は闇の中に立っていたが、放っておけないような気がして、大池のそばへ行った。
「大池さん、あたしです。どうなすったの」
大池は嗄れたような声でささやいた。
「ジガレンの注射を……」
大池は心臓発作をおこしかけている。
どんな嫌疑を受けても、犯した罪がなければ、いつかは解けると多寡を括っていたが、この二日、警察とのやりあいで、そうばかりはいかないらしいことをさとった。一人だけでいるところで死なれでもしたら、どんなことになるかわかったものではない。
「ともかく、長椅子に行きましょう」
大池を長椅子のところへ連れて行くと、上着を脱がせ、クッションを集めて座位のかたちで落着かせた。洗面器に井戸水を汲んできてせっせと胸を冷やしたが、こんなことでは助かりそうもなかった。
「応急薬といったようなものはないんですか、あるなら探して来るけど」
大池は食器棚を指さした。
「……ジギタミンと、赤酒を……」
食器棚の曳出しにはそれらしいものはなかったので、浴室へ行って、壁に嵌め込んだ鏡付のキャビネットの中を見た……「ジギタミン」というレッテルを粘った錠剤の瓶がガラスの棚の上に載っていた。日本薬局方の赤酒は、赤い封蝋をつけてウイスキ
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