もたいしたことはないと、急に気持が沈んできた。
「胸のところに色糸《いろいと》でK・Uという頭文字が刺繍《ぬいとり》してある……君の名は栂尾《とがお》ひろ、当然、H・Tでなければならないわけだ」
顔色が変るのが、自分にもわかった。
宇野久美子は、豊橋と大阪の間で消滅し、栂尾ひろという無機物のような女性が誕生した。久美子のつもりでは、癌腫という残酷な病気を笑ってやる戯れのつもりだったが、抜きさしのならない嘘になって、きびしく跳ねかえって来ようとは、思ってもいなかった。
「この運動靴の底に、エビ藻とフサ藻が、躙《にじ》りつけたようなぐあいになってこびりついている……湖や沼の岸にある淡水藻はアオミドロかカワノリ……エビ藻やフサ藻は、湖水の中心部に近いところに生えているのが普通だ……どうしてこんなものが靴底についたか? 深く沈んで、湖底を蹴りつけたからだとわれわれは考えるので、岸に近いところで落ちこんだという説には、承服しにくいのです。いま誰かつけてあげるから、どこで陥《はま》ったか、その場所をおしえてください」
私服に挟まれて、けさ落ちこんだ湖の岸を探しに行ったが、記憶がおぼろで、たしかにその場所を示すことはできなかった。
一時間ほど後、ひどく疲れてロッジへ帰ると、大池の細君と息子が着いていて、係官となにか小声で話していた。
大池の細君は、久美子がK・Uだと思いこんでいるらしく、こちらへ振返っては、いいしれぬ敵意のこもった眼差で、久美子を睨みすえた。
久美子は煖炉の前の揺椅子に沈みこみ、罪を犯したひとのように首を垂れ、理由のない迫害に耐えていたが、そのうちに、こんなことをしていること自体が、忌々しくて、我慢がならなくなった。
それにしても、なにか、たいへんなところへ陥りこんでしまったらしい。捜査一課の秀才の表現から推すと、自殺干与容疑か、自殺幇助容疑……悪くすると、偽装心中などというむずかしいところに落着くらしい形勢だった。
捜査一課は、いまのところ寛大ぶって笑っているが、いざとなったら、悚《すく》みあがるようなすごい顔を見せるのだろう。どのみち、警察へ持って行かれるのは、まちがいのないところだから、いまのうちに着換えをすましておくほうがいい。
久美子は生乾きのジャンパーや下着を腕の中に抱えとると、着換えをするために、二階の部屋へあがって行った。
死
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