はりついていて、なにか物音がするたびに、ワーンとすさまじい翅音《はおと》をたてて飛び立つのだった。どこからこんなに蠅が来たのだろう。季節は、もう十一月だし、すぐ地続きの青木のアトリエには、蠅などは一匹もいなかった。
「天井裏で、鼠でも死んでるんじゃないか」
というと、団六は、
「ああ、そうか。そんな事かも知れねえな」
と、呟きながら、キョロリと天井を見上げた。
一週間ほどしてから、また出かけて行くと、アトリエの周りには、乳剤のむせっかえるような辛辣《しんらつ》な匂いが立ちこめていた。
蠅は一匹もいなかった。しかし、今度は蝶々だった。
紋白や薄羽や白い山蛾が、硝子天井から来る乏しい残陽に翅を光らせながら、幾百千となくチラチラ飛びちがっている。そこに坐っていると、吹雪の中にでもいるような奇妙な錯覚に襲われるのだった。
青木は、家へ帰ると、女にいった。
「団六のところへ、こんどはたいへんに蝶々が来ている。行って見ろ、壮観だぞ」
女は、暢気《のんき》な顔で見物に出かけて行ったがしばらくすると、青い顔をして帰って来て、
「嫌だ。あんな大きな蛾って見たことがない……脂ぎって、ドキドキしていた」
と、気味悪そうに眉をひそめた。その夜半《やはん》、身近になにか人の気配がするので、ハッとして頭をあげて見ると、女が、大きな眼をして青木の枕元に坐っていた。
「……あたしの郷里《くに》では、人が死ぬとお洗骨《さらし》ということをするン。あッさりと埋めといて、早く骨になるのを待つの。……埋めるとすぐ銀蠅が来て、それから蝶や蛾が来て、それが行ってしまうとこんどは甲虫がやってくるン」
二、三日、はげしい野分が吹きつづけ、庭の菊はみな倒れてしまった。落栗が雨戸にあたる音で、夜ふけにたびたび眼をさまされた。
ある夜、青木は厠《かわや》に立ち、その帰りに雨戸を開けると、その隙間から大きな甲虫が飛び込んで来て、バサリと畳の上に落ちた。青木はギョッとして思わず、縁側に立ちすくんでしまった。
五日ほどののち、団六のところで将棋をさしながら、青木が、フト畳の上を見ると、乾酪《チーズ》の中で見かけるあの小さな虫が、花粉でもこぼしたように、そこらいちめんウジョウジョと這い廻っていた。
いま二人が坐っている真下あたりの縁の下で、何かの死体|蛋白《たんぱく》が乾酪《チーズ》のように醗酵しかけて
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