昆虫図
久生十蘭

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)一切《いっさい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)死体|蛋白《たんぱく》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き](〈ユーモアクラブ〉昭和十四年八月号発表)
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 伴団六は、青木と同じく、大して才能のなさそうな貧乏画かきで、地続きの古ぼけたアトリエに、年増くさい女と二人で住んでいた。
 青木がその裏へ越して以来の、極く最近のつきあいで、もと薬剤師だったというほか、くわしいことは一切《いっさい》知らなかった。
 職人か寄席芸人かといったように髪を角刈《かくがり》にし、額を叩いたり眼を剥《む》いて見せたり、ひとを小馬鹿にした、どうにも手に負えないようなところがあって、これが、最初、青木の興味をひいたのである。
 細君のほうは、ひどく面長な、明治時代の女官のような時代おくれな顔をした、日蔭の花のような陰気くさい女で、蒼ざめたこめかみに紅梅色の頭痛膏を貼り、しょっちゅう額をおさえてうつ向いていた。吉原にいたことがあるという噂だった。
 どういういきさつがあるのか、思い切って素《そ》っ気《け》ない夫婦で、ときどき、夜半《よなか》ごろになって、すさまじい団六の怒号がきこえてくるようなこともあったが、青木の前では、互いに猫撫で声でものを言い合っていた。
 十一月のはじめ、青木は東北の旅から帰り、その足で団六のアトリエへ訪ねて行くと、団六はめずらしくせっせと仕事をしていた。
 日本間のほうを見ると、いつもそこの机にうしろ向きになって、牡蠣《かき》のようにへばりついている細君の姿が見えないので、どうしたのかとたずねると、病気で郷里《くに》へ帰っているのだといって、細君の郷里の、船饅頭という船頭相手の売笑婦の生活を、卑しい口調で話しだした。
 十日ほどののち、いつものようにブラリとやって行くと、団六は畳のうえにひっくりかえって、しきりに手で顔をあおぐような真似をしている。青木が入って来たのを見ると、
「てへ、こりゃ、どうです。どだいひどい蠅で、仕事もなにも出来やしねえ。人間も、馬のように尻尾があると助かるがな」
 といって、妙なふうに尻を振って見せた。
 なるほど、ひどい蠅だ。
 壁の上にも硝子天井にも、小指の頭ほどもある大きな銀蠅がベタいちめんに
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