くの魅力のある眼を赤く泣き腫していた。
 聞いてみると、二人はその朝不幸な手紙を受取ったのである。布哇《ハワイ》のれいの後援者《パトロン》の漁場が大海嘯《おおつなみ》にやられ、一夜にして彼自身も無一文になってしまった。不本意ながら、援助が出来なくなったといってきた。寝耳に水とは真にこのことだ。ちょうど半年分の送金が届く定例の月で、それを待ちかねていたくらいだから手元には千|法《フラン》とちょっとしか残っていない。どんなに倹約したって二タ月ともちはしない。するとそのあとはどうなるだろう。
「夫は歌をうたうほかなにひとつ出来ない能なしだし、あたしはミシンもタイプライターもだめなんです。パパがいやしい仕事だといってやらしてくれなかったのよ。アメリカならどうにかなるでしょうが、こんなせち辛い巴里じゃ日本人の働く口なんか、あるわけはないんだし、友達はみんなじぶんのことだけで精一杯で、他人のことなんかにかまっていられない、貧乏なひとたちばかりなんだから、いずれは餓死するか自殺するか、あたしたちの運命はもうきまったようなもんですわ」
 いかにもしんみりと口説《くど》くと、同情を強要するような一種雅致のある泣きかたをしてみせた。つまるところは助けてくれというわけなのであろうが、こちらにはそんな気がない。聞くだけ聞いてひき退ってきた。
 一、それからまた三日ほどしてから、なにかの用事で夫婦のところへ行くと、発育不良の子供面が待ちかまえてでもいたようにいそいそと椅子から立ってきた。
「喜んでください。ぼくたちは餓死しないでもすみそうですよ。いやひょっとすると大金持になるかも知れないんです。まアこれを読んでごらんなさい」
 いわば、喜色満面といった風情で、前日の夕刊をさしつけてよこした。なんにしても結構な話にちがいないから、それはよかったといいながら、指《さ》されたところを読んでみると「モンテカルロの大勝」という標題《タイトル》の下に、ウィンナムという英国の婦人が一夜のうちに二十万|法《フラン》勝ちあげ、モンテ・カルロ海浜倶楽部《ビーチ・クラブ》がその婦人に祝品を贈呈したとか贈呈するところだとか、そういった埓もない記事が載っていた。
 夫のほうは悪いグロッグでも飲みすぎたようなしどろもどろの口調で「どうです。凄いじゃありませんか。一と晩に二十万法! ともかく最近モンテ・カルロはつづけざまにやられているんですよ。先週も三人組の独逸人に百万|法《フラン》近くやられて、三日の期限付でモナコ公国にモラトリアムが出たばかりのところなんです。それでぼくはちょっとしたシステムを知っているから、最後の千|法《フラン》を賭金《ミーズ》にして一と旗あげてみるつもりなんです。万一、負けたって自殺することにかわりはありやしない。次第によっては、まるっきり運命を変えることが出来るんだから」
 額際まで赤くなって熱狂しながら、机の上に置いてあった、れいの緑色の賭博場《カジノ》の週報、全紙数字ばかり羅列したモンテ・カルロ新聞 La Revue de Monte−Carlo の最初の頁を指さし「一昨日、モンテ・カルロの No. 2 の卓で朝の八時から夜の十二時までの間に、こんな順序で数字《ニュメロ》が出たんです。家内にこれを読ませて朝からシステムの実験をしているんですが、場で出た目のとおりなんだからモンテ・カルロのカジノでやっているとかわりはしないんです。だいぶいい成績ですよ。五|法《フラン》賭けで小さくやっているんですが、あらかた千法以上勝った計算になっているんです。わかりますか。五法でやって千法! 百法でやっていたら二万法、もし千法でやっていたら二十万勝っている理窟なんです。いま実験してお目にかけますから見ていてください。さアいまのつづきをやろう」と細君にいうと勿体ぶったようすで机の前に坐りなおした。
 細君は心得た顔でモンテ・カルロ新聞をとりあげると、滑稽とも悲惨ともいいようのない真面目くさったようすで斜《しゃ》にかまえ、賭博場《カジノ》の|玉廻し《クルウビエ》そっくりの声色で「|みなさん、張り方をねがいましょう《フェート・ウォ・ジュウ・メッシュウ》」のアノンセし、無智と卑しさを底の底までさらけだしたギスばった調子で、「三十五《トラント・サン》……黒《ノアール》……奇数《アンペア》……後目《パツス》……」などと一週間も前に出たモンテ・カルロのルウレットの出目を読みあげていたが、頃合のところで方式どおりに「|張り方それまで《リャン・ヌ・ヴァ・ブリユ》」と声をかけた。
 夫のほうは眼玉を釣りあげてギョロギョロしていたが、首だけこちらへねじむけて「ごらんなさい。赤《ルージュ》が十回もつづけて出ている。こんなことってあるもんじゃない。こんどは黒《ノアール》に崩れるにきまっています」と説明すると「黒へ五百|法《フラン》!」と叫び、賭けたしるしにノートへ N−500 と書きつけた。
 赤が出た。
「赤が出たらどこまでも赤に乗って行く約束だったじゃありませんか。勝手にシステムを変えるからいけないんです」と細君がやりこめた。夫のほうは見るもみじめに狼狽して「システムといったって博奕のことなんだから百パーセントに正確なもんじゃない。これは負ける回数をうんと少くして出来るだけ勝つ回数を多くしてその差で自然に儲けるようになっているシステムなんだから、一回や二回負けたってたいしたことはないさ。もっともいまは勝手にシステムを変えたからいけなかった。きめたシステム通り赤へ乗ってゆく。こんどは大丈夫……赤へ五百|法《フラン》」
 黒が出た。自分は見かねて、六階にいる男もじつはルウレットの研究をしているのだが、十年もやってようやくものになりかけているそうだという話をした。それほど研究してもかならず勝てるとはきまっていぬというのに、こんなにあやふやな思いつきでルウレットにたちむかうなんて愚劣なことはよしたがよかろうとたしなめたつもりだったが、二人にはこれがまるで通じぬらしく、たちまちはげしい渇望の色をあらわしてぜひそいつを教えてもらうことにしようといいだした。自分は「十年もかかって研究したものをそうかんたんに教えてくれるはずはなかろう」と苦《にが》い調子でいうと、夫は「ええ、ですからただ教えてもらうんじゃない。ぼくのシステムをむこうへ公開するんだからつまり交換教授です。これなら先生もまさかいやとはいわないでしょう」
 そして夕食に招くという名目で、うまくつれだしてほしいとたのんだ。自分は事を好むほど若くはないつもりだが夫婦の厚顔《あつかま》しさがひどく癇にさわり、無理にも六階の住人を引っぱってきて、こっぴどくとっちめてやりたくなった。
 一、彼は長椅子に寝ころがって煙草をふかしていた。部屋の紙屑は残らず消え、意外に清潔なようすになっていた。机の上にも埃がたまっていてしばらくそこに倚らなかったことを示していた。
 彼は元気よくはね起きて「おれが逢いたいと思ってるとかならず貴様がのこのこやってくる。おれと貴様の間には感応し合う電気のようなものがあるのかも知れぬな」といった。「じつはお前を晩飯に誘おうと思ってやってきたのだ。もっとも二人きりじゃない四階の夫婦もまじるのだが」
 案の定彼はうんとはいわなかった。女は苦手だとか、おれはもう社交の習慣を忘れてしまったとか、いろいろな口実を設けて頑強に反抗した。自分はそこで「バタを載っけた灸牛肉《シャトオブリアン》と鰻と、生牡蠣と鶏と……これだけのご馳走がお前のために用意してあるのだ」といってそれらの料理について精細な描写をした。
 彼は頭を抱えて呻いていたが「貴様はひとの弱点をつくようなことをする。貴様の策略にのるのは忌々しくてたまらんが、抵抗は出来ん。よし行く」といってたちあがった。
 彼の貪食ぶりは言語に絶した壮観で、挑みかかるようにありったけのものを喰いつくすと、喉を鳴らして遠慮なく※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]気《おくび》をした。食事がすむとすぐ、亭主のほうが、自分は最近すばらしいルウレットのシステムを発見したが、座興までにここで実験して見る。お望みなら公開してもいいといって素早く机の上にノートをひろげた。彼はたちまち嫌悪の色をあらわし、険しい眼つきでこちらへふりかえった。彼は何もかも察したらしかったが、それについては一言もいわなかった。
 例の通り細君が|玉廻し《クルウビエ》になり亭主が賭《は》り方へまわった。この日ははじめからだいぶ調子がよくて二十分ほどのあいだにかなりの額を勝ちつづけた。彼は頬杖をついて黙然とながめていたが、やがてとつぜん「たわけたことを! そんなのがシステムであってたまるものか」と叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]した。子供面はむきになってノートをふりまわしながら「現にこのの通り[#「このの通り」はママ]勝っているじゃないか」と叫んだ。彼は「勝っていることも事実だが、いずれ負けてしまうのも事実だ。お前の様な馬鹿野郎を納得させるには理窟では駄目なのだナ。いま実例を示してやる。おれが読むからやってみろ」といってモンテ・カルロ新聞をとりあげた。珍妙なことがはじまった。黒へ賭《は》れば赤が出る。奇数へ賭れば偶数が出る。面白いほどいちいち反対の目が出た。それは、涯しない鼬《いたち》ごっこだった。亭主は躍起となって賭《は》りつづけたが、間もなく仮想の全財産を失ってしおしおと賭博台を離れた。
「どうだ。おれは目を三つおきに読んだだけだが、こんなことで屁古《へこ》たれるようなものはシステムでもなんでもありはしないのだ。お前の馬鹿をここでわからしてもらったことを有難くおもえ、賭博場で自分の馬鹿がわかったと来ちゃ首を縊らなけりゃならんのだ。こんなものがシステムだなんて出かけて行ったら、モナコ三界で路頭に迷うぞ、及びもつかぬことを考えぬがいい」それ自身貧困である欧羅巴では、なんの生活力ももたぬ孤立無援のこの東洋人夫婦にとって、このような場合窮死は空想ではなく、極めてあり得べき事実なのである。この能なしの夫婦にとって賭博だけが最後の希望だった。彼等は悲運《ミゼール》から救ってくれるはずだった唯一の希望があとかたもなくケシ飛んでしまった。この打撃はどんなにひどいものだったか夫婦は虚脱したように椅子の中へめりこんでしまった。その絶望のさまはみるも無残なくらいだった。
 彼はまじまじと夫婦のようすをながめていたが懐中から黒い表紙の手帳をとりだすと、数字のギッシリとつまった頁《ページ》をペラペラとはぐって見せながら「システムなんてものは無限大の数字を克服してはじめて獲得出来るようなものなんだ。おれは十年やった。しかしそのおれでさえまだいっこうにわからん。君等はおれがかならず勝つと思っているかね? そんなことはあり得ないのだ。ルウレットというのはどれほどむずかしいものかその証拠をみせてやろう」そういうと妻君に「モンテ・カルロ新聞のどこからでもいいから、勝手に読んで見たまえ」といいつけた。
 彼は妻君が読みあげるのを頬杖をついてきていたが、やがて無造作に「黒へ最高賭額《マキシマム》(一万二千|法《フラン》)!」といった。
 黒が出た。また黒へ賭けた。黒が出た。次は赤へ賭けた。赤が出た。たった三回で(資本の一万二千法を差引いて)五万法も勝ってしまった。彼は無頓着なようすで黒へ二度、赤へ二度、黒へ一度、赤へ三度……それからまた前へ戻って、黒へ二度、赤へ二度というぐあいに最高額を賭《は》りつづけていた。
 ふしぎな現象がおきていた。われわれは遅まき乍ら、ルウレットがいま黒と赤と交互に(黒2回―赤2回―黒1回―赤3回)(2―2―1―3)という秩序立ったアッパリションを飽くことなく繰り返していることを発見した。
 この単純極まる反覆を十回もつづけた後、ルウレットは別な配列へ移っていた。今度は(赤1回―黒1回―赤1回―黒2回)……また始めへ戻って(1―1―1―2)という反覆運動だった。彼は機械的にそれに追従していたが、一時間ののち、ただの一度の失
前へ 次へ
全5ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング